医療の世界は今、「病気になってから治す」仕組みから、「病気になる前に防ぐ」仕組みへと大きく作り変えられようとしています。その転換を最もよく体現している一人が、医師でありながら科学者、起業家、投資家、そして未来学者でもあるダニエル・クラフト(Dr. Daniel Kraft)です。
スタンフォード大学とハーバード大学で医学の訓練を受けた内科・小児科の医師であり、四半世紀以上にわたって、医療とAI、デジタルヘルス、バイオテクノロジーが交わる場所でイノベーションを牽引してきました。彼の発想の根にあるのは、症状が出てから高額な治療に追われる医療から、データをもとに一人ひとりへ最適化された予防中心の医療へ移ろう、という一貫した考え方です。
医師であり、科学者であり、起業家
クラフトの強みは、技術の旗を振るだけの人ではなく、自ら第一線で研究してきた医師である点にあります。ブラウン大学で生化学を学んだのち、スタンフォード大学医学部で医学博士号を取得。ハーバード大学関連のマサチューセッツ総合病院とボストン小児病院で内科と小児科の研修を終え、両方の専門医資格を同時に取りました。
その後スタンフォードに戻り、血液学・腫瘍学と骨髄移植の研究員(フェロー)も務めています。アスペン研究所のヘルス・イノベーター・フェローシップ第1期生にも選ばれました。こうした臨床と研究の裏付けが、彼の語る未来像に確かな説得力を与えています。
基礎研究者としての土台
クラフトの研究テーマは、幹細胞生物学や再生医療、がんに対する免疫療法など、生命の根っこに関わる領域に広がっています。その成果は『Nature』や『Science』をはじめとする一流の学術誌に発表され、今の細胞治療の基礎の一部を形づくってきました。
とりわけ大きいのが、骨髄移植にまつわる発見です。従来の骨髄移植では、患者自身の骨髄をいったん壊すために強い毒性をもつ化学療法や放射線が必要で、それが重い副作用の原因になっていました。
クラフトは、骨髄の幹細胞だけを狙う抗体を使い、毒性に頼らずに移植の準備を整える方法を開発し、『Science』に発表します。この考え方はのちに、重い免疫不全をもつ子どもの臨床試験へとつながりました。骨髄のなかで幹細胞が育つ「すみか」の仕組みを解き明かした研究も、再生医療への道を広げています。
骨髄採取を変えたMarrowMiner
研究で得た知見を、現場の道具として形にしてきたのもクラフトの特徴です。代表例が、医療機器「MarrowMiner(マロウマイナー)」です。従来の骨髄採取は、全身麻酔をかけたうえでドナーの骨盤に太い針を何十回も刺し直すという、負担の大きいものでした。
MarrowMinerは、局所麻酔のもとでたった一度の穿刺から広い範囲の骨髄に届く設計で、採取にかかる時間を大きく短縮します。手術室の使用時間を減らせるためコストも下がり、しかも質の高い細胞をより多く採れるという利点があります。半世紀ほど大きく変わってこなかったこの分野で、初めての本格的な前進といえる装置で、すでに米国食品医薬品局(FDA)の承認も得ています。彼はこの装置を広めるためにRegenMed Systemsという会社も立ち上げました。
一人ひとりに最適化する薬、IntelliMedicine
万人に同じ薬を同じ量で、という従来の発想の限界に向き合ったのが、彼が手がけた「IntelliMedicine」という構想です。一人ひとりの体質や必要な量に合わせて、複数の薬の成分を一つのカプセルにまとめます。
さらに、ウェアラブル機器などから届く血圧や血糖値、心拍などのデータをもとに、薬の組み合わせや量を動的に調整していく、という考え方です。高齢の方や慢性疾患の患者さんが抱えがちな「薬を飲み続けられない」「飲み合わせが複雑すぎる」という問題を、一粒のスマートなカプセルで解こうとする、データ駆動型の医療を象徴する試みといえます。
技術を束ねるエコシステムづくり
クラフトの影響力は、個々の研究や製品にとどまりません。世界中の研究者や臨床医、起業家、投資家を結びつける「場」をつくってきたことが、最も大きな貢献かもしれません。
2008年の設立時から、彼はシリコンバレーの教育機関Singularity Universityで医学部門の責任者を務めています。2011年には、退屈になりがちな従来の医学会を作り直すように「Exponential Medicine」というプログラムを立ち上げ、これは現在「NextMed Health」という名前で、より人間中心のテクノロジー主導型ヘルスケアを語り合う場へと育っています。
年次カンファレンスはカリフォルニア州の歴史あるホテルで開かれ、直近は2025年3月末から4月初めにかけて行われました。医療者だけでなくAI研究者や政策担当者、患者の代表まで、30か国以上から多様な人が集まり、最新のロボット手術やVR医療を体験できる場にもなっています。
人類規模の課題に巨額の賞金で挑む「XPRIZE財団」でも、彼は中心的な役割を担ってきました。『スタートレック』の万能医療機器になぞらえ、自宅で健康状態を診断できる装置を競わせた1,000万ドルの「Qualcomm Tricorder XPRIZE」は、彼の発案から生まれた代表的なコンペです。新型コロナの流行時には、安価で迅速な検査法を競う600万ドル規模のコンペを主導し、世界中のチームが参加しました。
玉石混交のデジタルヘルスを整理するDigital.Health
医療アプリや遠隔モニタリング、AI診断支援など、デジタルヘルスのサービスは数えきれないほど登場しました。一方で現場の医師や患者は、「どれが本当に安全で効果があるのか」を見分けられず、導入が進まないという壁にぶつかっています。
クラフトはこの課題に向き合い、医療者の独立した判断にもとづいてサービスを整理・紹介するプラットフォーム「Digital.Health」を共同で立ち上げました。心臓やメンタル、女性の健康、長寿といった幅広い領域にわたって、数千件の選び抜かれたソリューションをまとめ、定期的に更新しています。
予防と長寿に賭けるベンチャー投資
技術を実際の医療に根づかせるには、資金も欠かせません。クラフトは、共同創業者のリッキー・メーラ(Ricky Mehra)とともに、アーリーステージのベンチャーキャピタル「Continuum Health Ventures」を立ち上げ、運用を担っています。
狙いははっきりしていて、「治す医療」を「防ぐ医療」へ変え、人びとの健康寿命を延ばす技術に投資する、というものです。とりわけ、病気が深刻になる前に見つける技術や、老化の進み方そのものに働きかける技術に注目しています。
投資先には、加齢に伴う免疫の衰えを治療しようとするバイオ企業や、AIで新しい心血管の薬を探す企業、介護や医療現場の人手不足を補いうる汎用ロボットの開発企業などが並びます。
戦闘機のコックピットから来た発想
彼の医療観を語るうえで欠かせないのが、航空宇宙医学と軍での経験です。学生時代から飛行機に魅せられ、自家用操縦士の免許を取得。NASAの宇宙生命科学のプログラムに選ばれ、無重力で筋肉が衰えるのを防ぐ研究などにも携わりました。
さらに、過酷な研修と並行して米空軍州兵に入隊し、F-15やF-16戦闘機の航空医官(フライトサージャン)を十年以上務め、海外への展開も経験しています。NASAの宇宙飛行士選考では最終選考に残ったこともあります。最新の戦闘機や宇宙船は、機体じゅうのセンサーから送られるデータを常に監視し、故障が起きる「はるか前」に手を打ちます。クラフトはこの考えを人の体に当てはめます。ウェアラブルや持続的な血糖測定、ゲノム情報などで体の状態を絶えず見守り、病気が起きる前に介入する。車の「エンジン警告灯(Check Engine Light)」のように、体にも異常を早く知らせる仕組みをつくろう、というわけです。
未来を語り続ける発信者
クラフトは、自分の考えを医療界の内側にとどめず、広く社会へ届けることにも長けています。TEDでこれまでに4回、TEDMEDで2回の講演を行い、新型コロナが促した医療の変化や、自ら発明したMarrowMinerの実演などを世界に向けて語ってきました。
CVS Healthと共同で配信する受賞歴のあるポッドキャスト『Healthy Conversations』では自らホストを務め、デジタルを使った自殺予防や、自宅を中心に据えた高齢期のケア、ゲノム医療の大衆化といったテーマを専門家と掘り下げています。『National Geographic』や『Forbes』『WIRED』などでも、データ駆動型医療の未来をたびたび論じてきました。
こうした発信は今も続いていて、2025年11月にはドイツの大規模な医療見本市「MEDICA 2025」で、2026年1月にはオランダ・マーストリヒトで開かれた「ICT&Health World Conference 2026」で、いずれも基調講演を担当しました。年明けの大型医療・金融カンファレンスにも登壇するなど、医療の未来をめぐる議論の最前線に立ち続けています。
治してから、防ぐへ
四半世紀を超えるクラフトの歩みを貫いているのは、「医療の発想を切り替える」という一点です。基礎研究で生命の仕組みを解き明かし、その知見をMarrowMinerやIntelliMedicineといった具体的な形にし、さらに個々の技術だけでは硬直した医療制度を変えられないと見るや、Singularity UniversityやNextMed Health、XPRIZEを通じて分野を超えた人びとが交わる巨大な場をつくってきました。
近年はDigital.Healthやベンチャー投資を通じて、長寿と健康寿命を延ばす技術の実用化を後押ししています。かつて航空医官として極限の環境でパイロットの命を守ったように、クラフトは今、最先端のバイオテクノロジーとデジタル技術で、すべての人のための「健康の警告灯」をつくろうとしています。症状が出てから動くのではなく、病気を予測し、未然に防ぎ、一人ひとりに合った医療を届ける。その未来へ、彼は道を切り開き続けているのです。