本を読むと、心はほどけるのか――有名な数字と、地味な研究のあいだ

本を読むと、心はほどけるのか――有名な数字と、地味な研究のあいだ

夜、ベッドに入ってからもスマホを手放せず、気づけば三十分。指はずっと動いていたのに、頭の疲れはまるで抜けていない。そんな夜を過ごした方は多いはずです。

同じ三十分でも、紙の本を数ページめくった夜には、体のどこかがすっと静かになる感覚があります。あの違いは気のせいなのか、それとも脳の中で本当に何かが起きているのか。

読書とメンタルヘルスをめぐる話には、景気のいい数字がたくさん転がっています。ただ、出典をひとつずつたどっていくと、有名な数字ほど足元が怪しく、地味な研究のほうが確かなことを語っている、という逆転が何度も起こります。ここでは、その線引きをしながら、本やマンガが心と脳に何をもたらすのかをほどいていきます。

反芻という空回り――没入が、回路を切り替える

気が沈んでいるとき、同じ後悔が頭の中で何周もすることがあります。心理学ではこれを反芻思考と呼び、抑うつや不安が長引く要因のひとつと考えられています。

このとき活発になっているのが、デフォルトモード・ネットワークと呼ばれる脳の回路です。特定の作業をしていない、ぼんやりした状態で働く広いネットワークで、本来は記憶の整理や先の計画に欠かせない仕組みだと考えられています。

ところが強いストレスの下では、この回路が過去と未来のあいだをぐるぐる往復しはじめます。ブレーキのない観覧車のように、同じ景色を何度も通過してしまう状態です。

文字を追い、人物の関係を追い、頭の中に情景を組み立てる作業には、まとまった注意が要ります。注意がそちらに割かれているあいだ、反芻に回せる余地は物理的に減っていきます。読書の落ち着きは、心を空にするのではなく、むしろ別の場所へ働かせることから生まれているようです。

読み終えた翌朝の脳――物語は、しばらく残る

読書の影響が、読んでいる最中だけで終わらないことを示した研究があります。アメリカの研究チームが2013年に報告したもので、参加者に長編小説を九日かけて読ませ、その翌朝の安静時の脳の結びつきをMRIで測り続けました。

読んだ翌朝には、視点を取ることや物語の理解にかかわるとされる領域を中心に、脳の結合が高まっていたと報告されています。そしてその変化は、読み終えたあと数日かけてゆっくり薄れていきました。

認知予備能――蓄えは、症状の手前で効く

年を重ねてからの脳と読書の関係については、よく知られた誤解があります。「読書習慣が認知症の発症リスクを三割以上下げる」という言い方です。

この話の元になっているのは、2013年にアメリカの研究チームが発表した長期の追跡研究です。生涯を通じた読書や執筆といった知的活動の頻度と、亡くなったあとに調べた脳の病理、そして生前の認知機能の変化を突き合わせたものでした。

そこで示されたのは、発症率ではありません。晩年に知的活動が多かった人は、平均的な人に比べて認知機能の低下する速さがおよそ三割ゆるやかだった、という結果です。しかもその関係は、脳にアミロイドやもつれといった病理がどれだけ溜まっていたかとは独立していました。

つまり、本を読むことで脳の病変そのものが消えるわけではないようです。病変が同じだけあっても、日々の暮らしのうえで機能の低下が表に出にくい――そういう「蓄え」が働いている、と研究者は考えています。認知予備能と呼ばれる考え方です。

他人の目を読む力――ここは、まだ決着していない

小説を読むと共感力が上がる、という話も広く出回っています。もとになったのは2013年にScience誌へ載った実験で、文学的な短編を読んだ直後の参加者が、写真の目もとだけから感情を読み取るテストで高い成績を出した、というものでした。

ただ、その後の追試はこの結果を再現できず、「文芸小説が即座に心の理論を高める証拠は見つからない」と結論しています。もとの著者たちは追試の手続きに問題があったと反論し、議論は現在も続いています。

ここは、あやふやなままにしておくのが正確です。物語を読むあいだ、私たちが登場人物の立場に立って「なぜこの人はこんな行動をとったのか」と考え続けているのは確かです。それが現実の対人関係にどこまで持ち出せるのかは、まだ研究の途中にあります。

紙のマンガで起きた「省エネ化」――東京大学が見たもの

媒体そのものが脳に差を生むのかを、直接のぞいた研究が2026年に発表されました。東京大学大学院総合文化研究科の酒井邦嘉教授の研究チームとコアミックスの共同研究で、結果は学術誌に掲載されています。

参加したのは大学生・大学院生二十五人。同じ物語を複数の登場人物の視点から描く「ザッピングストーリー」形式のマンガを使い、前半を紙の本で読む群とタブレットで読む群に分けました。そのあと全員がMRI装置に入り、ゴーグルで後半を読みながら、内容についての問題に答えます。

紙で前半を読んだ群では、その後の読書中と解答中に、左脳の言語野と、それを補助する右脳の前頭葉の活動が抑えられていたと報告されています。正解率そのものに差はありませんでした。

同じ正解に、より少ない脳の働きでたどり着いていた。研究チームはこれを「省エネ化」と呼んでいます。

省エネ化とは脳の余分な活動が抑えられることであって、効率や利便性の話ではない。そして、脳活動が上がることを「活性化」と呼んで良し悪しを語るのは、科学的に適切さを欠く――と明言されています。

なぜ紙で差が出たのか。マンガにはコマ割り、見開き、ページの左右といった空間の手がかりが豊富にあり、紙の本ではそこに厚みや重さ、めくる感触が加わります。その手がかりが後から物語をたどり直すときの負担を減らしているのではないか、という見方が示されています。

逃避にも二種類ある――スクロールと、物語の分かれ道

本やマンガに没頭することは、長らく「現実逃避」として片づけられてきました。ただ、心理学は逃避を一括りにせず、その動機によって二つに分けて考えます。

ひとつは、嫌な感情から目を逸らし、自己認識を下げること自体が目的になっている逃避です。ショート動画を無限にスクロールしている時間は、たいていこちらに入ります。刺激で思考を麻痺させるだけなので、感情の処理は先送りされたままです。

もうひとつは、新しい視点や経験を得るほうへ向かう逃避です。物語に入り込む時間はこちらに分類され、現実からいったん距離を置きながら、感情を整理し、戻ってくるための力を蓄える働きがあるとされています。

冒頭の夜の話に戻ります。スクロールし続けた三十分と、本をめくった三十分。どちらも現実から離れている点では同じでした。違っていたのは、離れたあとに何かを持って帰ってこられたかどうかです。

眠りの入口としての読書――寝る前の三十分をどう使うか

寝る前のスマホが眠りを妨げる理由は、画面の光がメラトニンの分泌を抑えるから、という説明だけでは足りません。通知、リンク、次々と差し出される関連コンテンツが、脳を探索モードに切り替えてしまう点のほうが、実は厄介です。

眠りに必要なのは静けさですが、探索モードで優位になるのは好奇心と覚醒です。眠ろうとしてスマホを開くのは、寝室のドアを閉めながら窓を全開にするようなものかもしれません。

暖色の弱い明かりの下で紙の本を読むことには、この問題がありません。むやみに感情を煽らない本を選び、ソファなど寝床とは別の場所で読み、眠気が来てからベッドへ移る。これを繰り返していると、脳は「本を開く=眠りの準備」と学習していきます。

派手な効果ではありませんが、毎晩の入口を静かに整えてくれる習慣です。

小さな習慣に戻る――結局、本は何をしてくれるのか

冒頭の問いに戻ります。読書は気晴らしなのか、それとも脳と心に本当の変化を起こしているのか。

派手な数字ほど根拠は薄く、地味な研究のほうが確かなことを語っていました。六分で68パーセントは学術的な裏づけを欠き、認知症を予防するとも言えません。共感力が上がるかどうかも、まだ決着していません。

それでも残るものはあります。注意を物語に預けているあいだ、反芻はその居場所を失います。読んだ翌朝の脳には、物語の余韻がまだ残っています。長い年月をかけた知的活動は、脳の病理そのものではなく、その影響の出方をやわらげる蓄えを作っていきます。そして紙のページには、画面にはない手がかりがあります。

必要なのは、一日一時間の読書でも、難解な本でもありません。寝る前にスマホを置き、手元に一冊を置いてみる。マンガでも構いません。文字を追う気力が出ない日ほど、絵のある本のほうが入り口として優しいことがあります。

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