福岡県筑後地方に根ざす久留米絣は、日本三大絣のひとつとして200年以上の歴史を誇る。藍の深い青と白の対比が織りなす美しい文様は、単なる伝統工芸品を超えた、この土地の精神そのものを表現している。本記事では、久留米絣の誕生から現代まで続く手仕事の真髄と、それを支え続ける職人たちの想いを探る。
井上伝の革新と久留米絣の誕生

文政年間(1818年-1830年)、久留米藩の城下町で一人の少女が織物の世界に革命をもたらした。井上伝、わずか12歳の時である。彼女が古い白木綿の着物に見つけた不規則な白い絣模様に魅了されたことが、久留米絣の始まりとなる。
伝は独学で絣の技法を研究し、約3年をかけて久留米絣の基本技術を確立した。従来の絣技法とは異なり、経糸と緯糸の両方に絣糸を用いる「経緯絣」という画期的な手法を編み出した。この技法により、より複雑で美しい文様を表現することが可能となった。
伝の技術は瞬く間に久留米藩内に広まり、藩も積極的にこの新しい織物技術を奨励した。久留米絣は藩の重要な産業として発展し、江戸時代後期には全国に知られる存在となる。明治時代に入ると、機械化の波が押し寄せる中でも、久留米絣は手織りの伝統を守り続けた。
井上伝の功績は技術革新だけにとどまらない。彼女は織物を通じて女性の自立を促し、筑後地方の女性たちに経済的基盤を提供した。現在でも久留米絣の多くの工房で女性職人が活躍しているのは、この伝統の継承といえる。伝の精神は技術とともに受け継がれ、久留米絣の根幹を成している。
職人の技と絣作りの工程

久留米絣の製作は30以上の細かな工程を経て完成する。その中でも最も重要とされるのが図案作りと括り作業である。職人は長年の経験と勘を頼りに、一本一本の糸に絣の位置を決定していく。この作業には高度な技術と集中力が要求される。
図案師は伝統的な文様を基に新しいデザインを創造する。亀甲、矢羽根、七宝などの古典文様から、現代的な幾何学模様まで幅広い表現が可能だ。図案が決まると、織り上がりを逆算して糸の染め分けを計算する「割り出し」作業が始まる。この計算ミスは製品全体の品質に直結するため、職人の技量が試される場面である。
括り作業では、染めない部分の糸を木綿糸で強く括る。この括りの強さや位置が絣の美しさを決定する。熟練職人の手にかかると、一日で数百箇所の括りを正確に行うことができる。続く染色工程では、天然藍を用いた伝統的な藍染めが行われる。何度も染めを重ねることで、久留米絣特有の深い藍色が生まれる。
最終工程の織り作業では、経糸と緯糸の絣を正確に合わせながら織り進める。わずかなずれも許されない精密作業である。完成した布は独特の風合いと美しい文様を持ち、使うほどに味わいが増していく。職人たちはこの一連の工程を通じて、単なる布ではなく、筑後の文化そのものを織り上げている。
伝統技術を支える現代の取り組み

久留米絣の技術継承は現代において大きな課題となっている。高齢化が進む職人の世界で、若い後継者の育成が急務となっている。久留米市や地元の組合では、技術者養成のための研修制度を設け、新たな人材の確保に努めている。
伝統的な手織り技術を維持しながら、現代のライフスタイルに合った商品開発も積極的に行われている。従来の着物だけでなく、洋服、小物、インテリア用品など、多様な商品が生み出されている。これらの取り組みにより、久留米絣は新しい市場を開拓し、若い世代にもその魅力を伝えている。
技術革新の面では、天然染料の研究や新しい文様の開発が続けられている。化学染料全盛の時代にあっても、久留米絣は天然藍にこだわり続けている。藍の栽培から建て込み、染色まで一貫した天然藍染めの技術は、世界的にも高く評価されている。
国際的な関心も高まっており、海外からの研修生や見学者が増加している。久留米絣の技術は日本の伝統工芸の代表として、世界に発信されている。職人たちは誇りを持ってこの技術を守り、次世代へと継承する使命感を持って日々の仕事に取り組んでいる。
手仕事が紡ぐ未来への道筋

久留米絣に込められた筑後の精神は、効率や利益を追求する現代社会において、改めてその価値が見直されている。手仕事による丁寧なものづくりは、大量生産では得られない深い満足感と愛着を生み出す。使う人と作る人をつなぐ絆が、久留米絣の真の価値といえる。
持続可能な社会への関心が高まる中、久留米絣の環境に配慮した製作方法が注目されている。天然素材の使用、化学薬品を使わない染色技術、長期間使用できる耐久性など、現代が求める価値観と合致している。このような観点から、久留米絣は未来のものづくりのモデルケースとしての可能性を秘めている。
地域活性化の観点からも、久留米絣は重要な役割を果たしている。観光資源としての価値はもちろん、地域の雇用創出や文化的アイデンティティの形成にも貢献している。筑後地方の多くの人々が、久留米絣を通じて自分たちの故郷に誇りを持っている。
井上伝が12歳の時に始めた小さな発見は、200年の時を経て現代まで受け継がれている。その精神は単なる技術の伝承を超えて、人と人、過去と未来をつなぐ架け橋となっている。久留米絣の一本一本の糸には、筑後の人々の想いと願いが込められている。この手仕事の精神こそが、久留米絣の最も価値ある財産である。
久留米絣の工房を訪れる際は、事前に見学の予約を取ることをお勧めします。職人の技を間近で見ることで、その精緻さと美しさをより深く理解できるでしょう。