失われた働きを「再生」する——幹細胞治療がひらく次世代医療

失われた働きを「再生」する——幹細胞治療がひらく次世代医療

これまでの医療の多くは、病気が引き起こす症状を薬や処置でやわらげる対症療法を中心に組み立てられてきました。けれども近年は、傷んだ組織や働きを失った臓器そのものを修復し、もう一度よみがえらせる「再生医療」へと、医療の重心が大きく動きつつあります。その中核を担うと期待されているのが、幹細胞を使った治療です。

失われた働きを補う、幹細胞という選択肢

幹細胞とは、自分とまったく同じ細胞を分裂によっていくつも生み出す「自己複製能」と、神経や心筋、血液など、さまざまな専門の細胞へと姿を変える「分化能」という、二つの力をあわせ持った細胞のことをいいます。

パーキンソン病や重い心不全、脊髄損傷といった領域は、一度失われた働きが自然に戻ることがほとんどなく、これまでの薬では進行を遅らせるのが精いっぱいでした。そうした「有効な手立てが乏しい病気」に対して、失われた細胞そのものを補い、あるいは細胞が出すさまざまな因子を通じて組織の修復を促すという、新しい選択肢を幹細胞は差し出しています。

臨床で使われる三種類の幹細胞

臨床で使われる幹細胞は、大きく三種類に分けられます。

一つ目のES細胞(胚性幹細胞)は、受精卵が育った初期の胚から取り出して培養するもので、体のほぼあらゆる細胞になれる高い能力を持ちます。ただし、作製の過程で受精卵を壊さざるを得ないという重い倫理的な課題があり、他人由来であるため移植すると拒絶反応が起きやすいという難点も抱えています。

二つ目のiPS細胞(人工多能性幹細胞)は、皮膚や血液など、すでに役割の決まった体の細胞に数種類の因子を導入し、時計を巻き戻すように初期化して作ります。ES細胞に匹敵する能力を持ちながら受精卵を使わないため、倫理面の懸念を根本から解消した点が画期的でした。

三つ目の体性幹細胞(成体幹細胞)は、骨髄や脂肪などにもともと存在する細胞で、なれる細胞の種類は限られるものの、患者自身から採りやすく倫理的な問題もなく、自分の細胞を戻す自家移植なら拒絶反応の心配もほとんどありません。白血病に対する骨髄移植など、長い実績を持つのもこのタイプです。

「自家」から「他家」へ、既製品化するiPS細胞

iPS細胞には、患者自身の細胞から作る「自家」と、健康なドナーの細胞からあらかじめ作っておく「他家」があります。

自家は拒絶反応を理論上避けられる一方、一人ひとりにあわせて作るため莫大な費用と長い準備期間がかかります。そこで現在は、拒絶が起きにくい型のドナー細胞から大量に作って備蓄しておく他家iPS細胞が主流になりつつあります。これにより、必要なときにすぐ使える「既製品(オフ・ザ・シェルフ)」としての再生医療製品が現実味を帯びてきました。

マウスES細胞からiPS細胞へ——20年の歩み

この分野の歩みを振り返ると、いくつかの節目が見えてきます。1981年、マーティン・エヴァンズらがマウスのES細胞の樹立を報告し、無限に増えて多能性を保つ細胞の存在が示されました。

流れを大きく変えたのは2006年、京都大学の山中伸弥教授のチームが、マウスの細胞にわずか四つの因子を導入して初期化し、iPS細胞を生み出したことです。

翌2007年にはヒトのiPS細胞の作製にも成功し、細胞の運命は一方通行だという生物学の常識が覆りました。この功績で山中教授は2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞しています。

そして2014年9月12日、理化学研究所の高橋政代氏らが、目の病気である加齢黄斑変性の患者に、自分の細胞から作ったiPS細胞由来の網膜の細胞シートを世界で初めて移植しました。

経過観察では腫瘍などの異常は見られず、視力の悪化も食い止められ、iPS細胞が人の体で安全に働きうることが示されたのです。2026年は、iPS細胞の発表からちょうど20年という節目にあたります。

早期実用化を支える日本独自の制度

日本がこの分野で世界に先行できた背景には、独自の制度設計があります。医療機関が再生医療を提供する際のルールを定めた再生医療等安全性確保法は、使う細胞の性質や加工の度合いに応じて、技術を高・中・低の三つのリスク区分に分けて管理します。

一方、企業が広く販売する「再生医療等製品」には薬機法が適用され、2014年の改正で「条件及び期限付承認制度」という仕組みが導入されました。生きた細胞は品質が均一になりにくく、対象も希少な難病が多いため、従来のような数千人規模の試験を行うのは容易ではありません。

そこで、安全性が確認され、少数のデータから有効性が「推定」できる段階に達した製品に、最長七年といった期限と市販後調査などの条件を付けて、早めに承認を与えるというものです。

ただし、これは検証を省く制度ではありません。企業は期限内に、実際の医療現場のデータで効果と安全性を改めて確かめ、本承認の申請を行う重い責任を負います。治療を急いで届ける「希望」と、エビデンスを固める「検証」を並走させる、日本ならではの設計だといえます。

脳損傷に挑む「アクーゴ」、実用化の始まり

実用化はすでに始まっています。

2024年7月に条件・期限付きで承認され、2026年5月21日に発売されたサンバイオの「アクーゴ脳内移植用注(一般名・バンデフィテムセル)」は、交通事故や転倒などによる外傷性脳損傷のあとに残る慢性期の運動まひの改善を目指す製品です。

健康な成人の骨髄から採った間葉系幹細胞に、神経の再生力を高めるヒトNotch-1の遺伝子を導入して作ります。患者自身の細胞の培養を待つ必要のない既製品で、損傷部位へ細胞を精密に届ける専用の投与機器とセットで承認されているのが特徴です。脳への直接移植を伴うため、体制の整った高度な医療機関でのみ使えます。

2026年、iPS細胞由来製品が世界で初めて承認された

そして2026年、再生医療の歴史に刻まれる出来事が起きました。iPS細胞を用いた二つの製品が、2月の専門部会での了承を経て、3月6日に条件・期限付きで承認されたのです。iPS細胞由来の製品が実際の医療として使われるのは、これが世界で初めてのことでした。

上野賢一郎厚生労働大臣は会見で、山中教授のiPS細胞をもとにした日本発の治療製品が世界で初めて実用化されたことは大変喜ばしく、世界中の患者の救いとなることを願う、と述べています。

パーキンソン病の「アムシェプリ」

一つ目は、住友ファーマが開発したパーキンソン病の治療製品「アムシェプリ(一般名・ラグネプロセル)」です。パーキンソン病は、脳の中でドパミンを作る神経細胞が減っていき、手足の震えや動きにくさが進む難病です。

アムシェプリは、他家iPS細胞からドパミン神経の前駆細胞を作り、患者の脳に直接移植して、失われた神経の働きを補おうとするものです。50〜69歳の7人を対象にした医師主導治験では、有効性を評価できた6人のうち4人で運動症状の指標に改善が見られ、有望なデータが得られました。住友ファーマはこの製品を、将来世界で売上高10億ドルを超える主力に育てたいと期待を寄せています。

重症心不全の「リハート」

二つ目は、大阪大学の澤芳樹教授らの研究を基盤に設立されたクオリプスが開発した、重い心不全のための「リハート」です。これは、他家iPS細胞から作った心筋細胞を、一枚あたり約3,300万個を含むシート状にした製品で、弱った心臓の表面に直接貼り付けて、ポンプの働きを支えます。

貼られたシートからは新しい血管が作られ、細胞が出す修復因子を通じて、患者自身の心筋の回復が促されると考えられています。承認の根拠となったのは、少人数の患者を対象にした医師主導治験です。

安全性が確認され、心機能の改善が示唆されたことから、有効性が「推定」される段階として承認されました。今後、より多くの症例で効果を確かめていく段階にあります。

承認の先で動く、次のパイプライン

承認済みの製品の先には、強力なパイプラインが控えています。心不全の領域では、慶應義塾大学の福田恵一氏が設立したハートシードが、iPS細胞から作った心筋細胞を球状の塊にし、専用の針で心臓の筋肉に直接注入するという、シートとは異なる方法の治験を進めています。

注入する細胞の数が多いほど治療効果が高まる傾向が示唆されており、同社は2027年ごろの国内承認を目指しています。同じ病気に対して「貼る」「注入する」という異なる技術が競い合うことで、選択肢に厚みが出てきています。

中枢神経の領域も動いています。慶應義塾大学の岡野栄之教授らが設立したケイファーマは、脊髄損傷の治療薬KP8011の医師主導臨床研究を進めてきました。受傷からまもない亜急性期の患者に、iPS細胞から作った神経前駆細胞を損傷部へ注入し、神経回路の再構築をはかるものです。

2025年に学会で発表された結果では、4例すべてで安全性が確認され、2例で運動機能の改善が見られました。一方が歩行練習を行えるまでに、もう一方が食事をとれるまでに回復したと報告されています。

同社は、品質の高い細胞を安全に安定供給する製造・流通の体制づくりをパートナー企業と進めながら、商用化への歩みを進めています。あわせて、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の治療薬は次の段階への準備を終え、前頭側頭型認知症やハンチントン病へとパイプラインを広げています。

これらの神経疾患は患者数が多く、たとえば亜急性期の脊髄損傷だけでも国内で750億円規模の市場が見込まれるなど、高齢化が進むなかで大きな成長領域になると考えられています。

普及への壁——医療経済という課題

その一方で、再生医療の普及には現実的な壁もあります。最大のものが医療経済です。細胞の培養や厳格な品質管理、超低温での輸送、高度な移植手術まで、製造から投与までの工程は従来の薬とは比べものにならないほど複雑で、費用がかさみます。

たとえば、デュシェンヌ型筋ジストロフィーを対象とした遺伝子治療製品「エレビジス」は、1人あたりの薬価が約3億円という国内最高額に設定され、患者を救う一方で、医療保険財政への負担をどう考えるかという議論を呼んでいます。

アムシェプリやリハートのようなiPS細胞製品が標準治療として広がるには、企業の研究開発費の適正な回収と、皆保険制度を持続させるためのコスト抑制という、相反する課題を両立させる必要があります。

自由診療という、もう一つの現実

公的保険のもとで慎重に進む製品とは別に、民間のクリニックでは「自由診療」として幹細胞治療が広く提供されています。多くは患者自身の脂肪などから採った体性幹細胞を培養し、抗加齢や美容、関節の痛みの軽減などを目的に投与するものです。

保険が効かないため費用は全額自己負担で、初期費用に加えて細胞を凍結保管する年間の維持費が継続的に発生するなど、負担は決して小さくありません。先進的な選択肢として機能している面はありますが、大規模な治験による客観的なエビデンスが確立されていない例も少なくないため、受ける側には高い情報リテラシーと慎重な判断が求められます。

残された検証——「特急券」を本物の医療にできるか

早期承認を支える日本の制度には、海外からの注目とともに一部の懸念も寄せられています。英科学誌ネイチャーは、少人数の初期データで実用化を認めることへのデータ不足の懸念を報じ、安全性と有効性を確かなものにするにはより大規模な比較試験が欠かせない、という研究者の見方を紹介しました。

この指摘に応えるため、日本の制度では承認後の市販後調査で厳格なデータ収集が義務づけられています。アムシェプリは約35例の患者を追跡し、リハートは75例の投与データを集めて検証を行う計画で、これをやり遂げられるかどうかが、日本発の再生医療が世界の標準になれるかを左右する試金石となります。

医学の転換点に立ち会って

1981年のマウスES細胞の発見に始まり、2006年のiPS細胞の誕生を経て、2026年についにiPS細胞由来製品の世界初承認が実現しました。アムシェプリやリハート、アクーゴは、これまで進行を遅らせることしかできなかった病気に、「再生」という新しい希望をもたらしつつあります。

とはいえ、この成果を本物の医療として根づかせる鍵は、研究室の中だけにはありません。高品質な細胞を安定して供給する体制、高度な移植手術を安全に行える医療機関の整備、そして莫大な費用と持続可能な医療財政との折り合いをどうつけるか。

条件・期限付承認は、患者のもとへいち早く治療を届ける「特急券」であると同時に、市販後の検証を通じてその価値を世界に証明するための「試練の場」でもあります。

これからの数年の検証を経て十分なエビデンスがそろったとき、幹細胞治療は次世代の標準医療として、確かな基盤になっていくはずです。私たちは今、医学の大きな転換点に立ち会っているのです。

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