選手が着る「黒いブラ」の正体——EPTSが変えたスポーツ科学のすべて

選手が着る「黒いブラ」の正体——EPTSが変えたスポーツ科学のすべて

近年、サッカーや野球の選手が練習着の下に黒いインナーを身につけている姿が、たびたび話題になります。胸まわりを覆うその形から「下着では」と戸惑う声がSNSで広がることもありますが、正体はファッションでも姿勢矯正具でもなく、最先端のウェアラブル機器です。

「黒いインナー」の正体はEPTS

このインナーはEPTS(電子的パフォーマンス・トラッキング・システム)と呼ばれ、「デジタルブラ」「GPSトラッカー」とも称されます。背中側に小さなデータ収集装置(ポッド)を収め、走行距離や最高速度、スプリント回数、心拍数、さらには疲労度や身体の左右差まで、運動中のさまざまなデータをリアルタイムに集めます。

かつては一部のトップクラブだけが密かに使っていた技術ですが、いまではプロからアマチュア、育成年代まで広く普及しました。大谷翔平選手をはじめ、キリアン・エムバペ選手のようなトップアスリートが着用する姿が知られています。

なぜ肩甲骨の間に着けるのか

男性選手が下着のようなクロップドベストを着る理由は、見た目の奇妙さとは裏腹に、きわめて合理的です。最大の狙いは、背中の左右の肩甲骨の間にポッドを固定し続けること。理由は二つあります。

ひとつは衛星通信の精度です。トラッキングは主に上空の衛星と通信して位置を測るため、遮るものの少ない肩甲骨の間に置くと、安定した通信経路を保てます。手首や腰では、腕の振りや前傾で衛星との見通しがたびたび途切れ、データにノイズが乗ってしまいます。

もうひとつは安全性です。サッカーやラグビー、アメリカンフットボールのような接触の激しい競技では、胸や腹、腰はタックルやボールが当たりやすい部位ですが、肩甲骨の間のくぼみは相手の膝や肘が入り込みにくく、転倒時も背中と肩の筋肉で守られやすい場所です。

ベスト自体も高度な繊維製品です。伸縮性の高いエラスタンを多めに配合し、激しい動きでも肌に密着して、加速度計に余計な布の揺れを伝えません。摩擦を防ぐ縫い目のないシームレス設計も施されています。

女性向けの対応も進み、2015年の女子ワールドカップを機に公式戦での着用が認められて以降、トラッカーを収められる女性専用のスポーツブラも登場しました。アレックス・モーガン選手やミーガン・ラピノー選手のようなトップ選手も、体に合った形で計測の恩恵を受けられるようになっています。

数十グラムに詰まったセンサー技術

背中のポッドはわずか数十グラム(日本サッカー協会が審判用に求める仕様では55g以内)ですが、中には精密なマイクロセンサーが詰まっています。位置と速度を測る軸になるのがGPS、そしてGNSSです。一般的なスマートフォンやスマートウォッチが1秒に1回の測位なのに対し、競技用のEPTSは1秒に10回(10Hz)測ります。

サッカーの急加速や、一瞬の方向転換の軌跡を捉えるには、この解像度が欠かせません。最新機種はアメリカのGPSだけでなく、欧州のガリレオなど複数の衛星網を束ねるGNSSを使い、捕捉できる衛星が増えて精度と信頼性が上がっています。

ただし衛星測位は屋外の平面的な位置に強い一方、細かな体の傾きや屋内の動きには限界があります。それを補うのがIMU(慣性計測装置)です。前後・左右・上下の加速度を測る3軸加速度計、体の傾きや回転を捉えるジャイロスコープ、方位を測る磁力計の三つで構成され、急加速や急減速、ジャンプの衝撃、疲労に伴うフォームの崩れまで数値にします。

さらに、観客で囲まれた大型スタジアムやドームでは衛星信号が乱れることがあり、これに備えてトップ各社は、スタジアムにアンテナを設置し超広帯域無線などで選手を追うLPS(局所測位システム)も提供しています。衛星が届きにくい環境でも、数センチ単位の位置追跡が可能になります。

走りを数値に変える

集めた生データは、そのままではコーチに意味を持ちません。スポーツ科学者やソフトウェアが処理し、解釈できる指標に変えてはじめて役立ちます。たとえば総走行距離は持久力の基本的な目安で、運動量の多いミッドフィルダーやサイドバックは1試合で最大13km前後を走ります。育成年代の有望株では10kmほどが目標値です。

トップスピードも重要で、エリートのスプリンターは秒速10メートル(時速約36km)に達し、若手やアマチュアでは秒速8.5メートルがひとつの優秀な基準になります。

高速度で走った距離の累計であるスプリント距離は、プロが1試合で300〜500m、アマチュアが100〜350mほど。単に一度速いかではなく、90分を通じて高強度のスプリントを繰り返せるかどうかが、トップ選手の本当の試金石とされています。加速・減速・スプリントの量を組み合わせたパワーの指標もあり、爆発的な動きを連続して求められる攻撃陣で高くなります。

「Player Load」という発想

EPTSがもたらした大きな発想のひとつが「Player Load(プレイヤーロード)」です。これまで選手の負担は走行距離で測られがちでした。しかし、平らな道を5km走るのと、タックルやヘディングの競り合い、急な方向転換や転倒を含みながら5km動くのとでは、筋肉や関節、神経への負担はまるで違います。

走行距離だけでは、サッカー特有の激しい要素が抜け落ちてしまうのです。そこで生まれたのがPlayer Loadで、もとはラグビーの負荷を数値化するためにオーストラリアの研究機関で考案され、その後ひろく実用化されました。

考え方はシンプルで、3軸加速度計が捉える加速度の瞬間ごとの変化量を前後・左右・上下のすべてで合算し、時間とともに積み上げていきます。これにより、走った距離には表れないのに体力を大きく削るダイビングやタックルといった動きの負荷まで、ひとつの数値として蓄積できます。

勘の時代からデータの時代へ

いまでこそ当たり前のEPTSですが、普及の道は平坦ではありませんでした。サッカーは長く、監督の経験や勘、選手のひらめきを重んじる文化が根強く、データへの懐疑も強い競技だったからです。流れを変えた出来事のひとつが、1997年のイングランド・プレミアリーグでのミドルスブラの取り組みです。

スティーブ・ギブソン会長とブライアン・ロブソン監督のもと、スポーツ科学者のクリス・バーンズ氏を招いて専門部門を設けました。当初は懐疑の目を向けられたものの、チームは昇格を果たし、カップ戦の決勝にも進む成功を収め、客観的データの価値を示す先駆けの一つとなりました。

現在では、プレミアリーグの多くのクラブが専門のスポーツ科学者を複数抱え、その仕事の大半はEPTSが生むデータの管理と解釈に費やされます。さらに大きな変化は、データ活用が上からの押し付けではなく、選手自身が引っ張るようになったことです。大谷翔平選手のように、自分の数値に強い関心を持ち、どうすれば良くなるかを問い続けるトップ選手が、スポーツ界全体の意識を変えていきました。

過密日程をどう乗り切るか

EPTSによる負荷管理の必要性は、いまの過密な日程を見ると痛いほど分かります。2026年6月から7月にかけて行われているFIFAワールドカップで、日本代表はグループFを戦っています。

メンバーには、鎌田大地選手(クリスタル・パレス)、冨安健洋選手(アヤックス)、久保建英選手(レアル・ソシエダ)、堂安律選手(フランクフルト)、伊藤洋輝選手(バイエルン・ミュンヘン)など、欧州の主要リーグで年間を通して多くの試合をこなしてきた選手が並びます。彼らはクラブでの蓄積疲労を抱えたまま、環境の異なる舞台で数日おきに高強度の試合を重ねます。

スポーツ科学では、こうした日々の負荷とこれまでの平均的な負荷の比率が急に跳ね上がると、ハムストリングスの肉離れのような非接触性のけがが起きやすいと考えられています。

メディカルスタッフは、機器から得るPlayer Loadやスプリント距離を見ながら練習強度を細かく調整し、選手を守っています。国内のJリーグも同様で、2026年シーズンは秋春制への移行に伴い「百年構想リーグ」として運営され、過密な連戦が組まれています。

猛暑のなかで数日おきに試合が続く状況では、誰を休ませ誰を使うかを勘だけで決めることはできません。客観的な疲労回復やPlayer Loadの蓄積に基づく「科学的なターンオーバー」が、長いシーズンを戦い抜く条件になっています。

ルールの進化と、足元への拡張

公式戦での扱いも段階的に変わってきました。長くトレーニング限定だった着用は、2015年の女子ワールドカップ直前の競技規則改正で公式戦でも認められ、2018年のワールドカップでは出場全32か国のベンチに分析用タブレットが配られ、試合中のリアルタイム活用が公式に認められました。

試合中の着用が広がると、衝突時の安全性とデータの信頼性が新たな課題になります。これに応えるため、FIFAは品質基準「FIFA Quality Programme for EPTS」を整え、2017年からは衝突しても選手を傷つけないかを調べる安全性テストが、2019年からはデータの精度と一貫性を評価するテストが加わりました。

技術は装着部位も広げています。近年は、スパイクに小さなセンサーを留める足元装着型も登場しました。2023年に国際サッカー評議会の承認を経て公式戦での使用が認められたこの方式は、衛星測位こそ持たないものの、足の動きを1秒に1000回という高い解像度で捉えます。

ベスト型では測れないボールタッチの数やキックの初速、左右の足の使い分けといった、技術的な細部のデータを取れる点が新しさです。

世界の主役と、日本の育成現場

世界の市場では25社以上がしのぎを削っています。先駆者で市場を主導するのが、オーストラリア発のカタパルト社です。FIFAの認証を多く持ち、最新機種は1秒あたり1000以上のデータを捉え、映像分析との統合を強みにします。

最大のライバルはイギリスのスタッツスポーツ社で、アーセナルやFCバルセロナなどを顧客に持ち、プロ向けだけでなくプロと同等の機器を個人にも直接販売する戦略に長け、買い切り型(6万円前後)でプロとデータを比べられる機能などを提供しています。このほか、アメリカンフットボールの公式追跡を担うゼブラ社や、屋内競技や高精度の相対位置に強いキネクソン社が存在感を見せています。

そして日本には、独特のエコシステムがあります。トップではJリーグのクラブが世界標準の機器を導入し、日本サッカー協会も審判用にGPS機器を公式に採用しています。けれども日本市場の本当の特徴は、育成年代での普及にあります。その流れを引っ張るのが、本田圭佑氏が開発に深く関わるSOLTILO Knows社の「Knows」です。プロでのシェアは限られますが、予算の限られる育成年代では高いシェアを誇り、市立船橋や流経大柏など複数の強豪校が導入しています。

Knowsが支持される背景には、日本の部活動の課題に応える工夫があります。心拍数や走行距離に加えて、これまで目に見えなかった「根性」を数値にした点です。心拍数が限界域に達した苦しい場面で、どれだけ高い頻度と強度でスプリントを続けられているかを計算し、タブレットにリアルタイムで映します。

この可視化は、現場を大きく変えました。以前は終盤に「もっと走れ」と精神論で鼓舞しがちでしたが、選手の心拍が限界だと画面で分かれば、監督は無理を強いる代わりに、パスを回して陣形を整え体力を戻すよう、理性的な指示に切り替えられます。評価軸が主観から客観的なデータへ移ったことで、努力を怠れば言い訳が利かず、献身的に取り組めば確かな証拠が残ります。選手は自分の数値に責任を持つようになり、主体性が育ちます。

成長の個人差が大きい年代だからこそ、他人と速さを比べるのではなく、過去の自分と比べて回復力や負荷への耐性の伸びを追えることにも意味があります。これは「成功ではなく成長に執着する」という本田圭佑氏の育成観を、技術で形にしたものと言えるでしょう。一括購入に加え、月額数千円のレンタルという低価格の選択肢が、高価だったスポーツテクノロジーのハードルを一気に下げ、草の根のデジタル化を後押ししました。

データが変えたもの

練習着の下の黒いインナーは、ただの衣類ではありません。GPSや加速度計、ジャイロスコープ、磁力計といったセンサーを小さな本体に収め、クラウドとつながった精密なデータ収集装置です。1990年代に懐疑のなかで導入されたアプローチは、いまやトップアスリートの日課となり、ワールドカップの勝敗を分ける判断のよりどころとなり、高校サッカーの現場で若い選手の主体性を育てる道具にまで広がりました。

この技術がもたらした最も大きな変化は、評価と管理のあり方そのものです。かつて選手の疲労や貢献は、指導者の勘や外から見える熱意で推し量られていましたが、EPTSは肉体の限界や苦境での踏ん張りを、誰も否定できない数値として示します。過度な負担による故障は未然に防がれ、偏りのない評価が築かれ、何より選手自身が自分の体と対話しながらパフォーマンスを最適化していく土壌が生まれました。足元のセンサーによる繊細な技術解析など、進化はなお続いています。アマチュアからトップまで、あらゆる層に「正しい努力のための羅針盤」を与え続けるEPTSは、現代スポーツ科学を象徴する変化だと言えるでしょう。

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