時代の変化が突きつけた現実

1970年代に入ると、久留米絣を取り巻く環境は劇的に変化した。最大の要因は生活様式の急速な洋風化である。着物から洋服への移行が決定的となり、久留米絣の主要市場である和装需要が大幅に縮小した。昭和50年代には着物市場は最盛期の3分の1にまで減少し、久留米絣業界に深刻な打撃を与えた。
化学繊維の普及も大きな脅威となった。ポリエステルやナイロンなどの合成繊維は、安価で手入れが簡単という利点があり、消費者の支持を集めた。特に若い世代は天然繊維よりも機能性を重視する傾向が強く、久留米絣のような伝統的な織物は時代遅れと見なされがちだった。
流通構造の変化も深刻な問題だった。百貨店や専門店中心の従来の販売チャネルに代わり、量販店やチェーン店が主流となった。これらの店舗は低価格商品を大量に扱うビジネスモデルであり、手間をかけて作られる久留米絣は価格競争力で劣る状況に陥った。
後継者不足も深刻化した。高度経済成長により就職機会が増え、若者は都市部の企業に就職することを選んだ。織物業は労働集約的で収入も不安定なため、魅力的な職業として認識されなくなった。多くの織元で後継者が見つからず、廃業を余儀なくされるケースが相次いだ。
国際競争の激化も無視できない要因だった。アジア諸国からの安価な織物が大量に輸入され、国内市場を席巻した。特に中国や韓国の製品は、久留米絣に似た絣織物を機械生産により低価格で提供し、価格面での競争が困難になった。
文化的価値観の変化も影響した。物質的豊かさを追求する時代風潮の中で、手間をかけて作られるものの価値が軽視される傾向が強まった。「早い、安い、便利」が優先され、伝統工芸の持つ「時間をかけた丁寧さ」は市場価値を失いつつあった。久留米絣業界は、根本的な発想の転換を迫られる状況に直面したのである。
危機を機会に変える革新への挑戦

厳しい状況に直面した久留米絣業界は、1980年代から積極的な改革に取り組んだ。最初の挑戦は用途の多様化だった。従来の着物中心から脱却し、洋服、インテリア、小物など幅広い用途開発を進めた。特にスカーフやバッグなどの小物類は、比較的低価格で久留米絣の美しさを楽しめるため、新たな顧客層の獲得に成功した。
デザイン面でも大胆な革新を行った。伝統的な藍白の配色に加え、現代的な色彩を取り入れた新しいデザインを開発した。また、絣の模様も従来の幾何学模様から、花柄や抽象模様まで範囲を広げた。これにより若い世代にも受け入れられる製品づくりを実現した。
生産技術の改良も重要な取り組みだった。伝統技法を維持しながら効率化を図り、コストダウンを実現した。特にコンピュータ制御による図案設計の導入により、複雑な模様の設計が効率化され、多品種少量生産が可能になった。これにより個性的な製品の提供が可能となった。
販売戦略の見直しも行われた。従来の問屋依存から脱却し、直販体制を強化した。工房見学ツアーの実施、インターネット販売の導入、催事販売の拡充など、消費者との直接的な関係構築に力を入れた。これにより製品の背景にある物語や技術を直接伝えることが可能になった。
国際展開も新たな挑戦だった。ヨーロッパやアメリカの見本市に出展し、久留米絣の技術と美しさを世界にアピールした。特にヨーロッパでは手工芸品への関心が高く、久留米絣の繊細な技法は高く評価された。輸出が本格化し、海外市場が新たな収益源となった。
体験型事業の展開も重要な変化だった。工房での織物体験教室、染色体験、絣糸づくり体験などを通じて、久留米絣の魅力を直接体感してもらう取り組みを始めた。これらの体験プログラムは観光資源としても機能し、地域活性化にも貢献した。参加者の多くが久留米絣のファンとなり、継続的な顧客として定着していった。
伝統技術と現代技術の融合

1990年代から2000年代にかけて、久留米絣業界は伝統技術と現代技術の融合による新たな発展を遂げた。この時期の革新は、単なる技術の近代化ではなく、伝統の本質を理解した上での創造的な発展だった。
最も注目された取り組みは、コンピュータ支援による図案設計システムの開発だった。従来は熟練職人の経験と勘に頼っていた絣模様の設計を、コンピュータでシミュレーションできるようになった。これにより複雑な模様の設計時間が大幅に短縮され、試作コストも削減された。また、顧客の要望に応じたオーダーメイド製品の提供も容易になった。
染色技術でも革新が進んだ。伝統的な藍染めに加え、草木染めや化学染料を組み合わせた新しい染色法が開発された。特に色落ちを防ぐ技術の向上により、洋服用途での実用性が大幅に改善された。また、環境に配慮した染料の開発も進み、エコロジー志向の消費者からの支持を獲得した。
織機の改良も継続的に行われた。手織りの風合いを保ちながら効率を向上させる半自動織機が開発され、生産性が向上した。また、品質の安定化も図られ、従来は職人の技量に左右されがちだった製品品質の均一化が実現された。
品質管理システムの導入も重要な変化だった。工程ごとの品質チェック体制を確立し、不良品の発生を大幅に削減した。また、トレーサビリティシステムの導入により、原料から完成品まで一貫した品質管理が可能になった。これにより消費者の信頼性向上と、高級ブランドとしての地位確立に成功した。
人材育成制度も大きく変わった。従来の徒弟制度に加え、専門学校との連携による体系的な技術教育を開始した。また、海外研修制度や他産地との技術交流も活発化し、視野の広い職人の育成に努めた。さらに、女性職人の積極的な登用により、従来とは異なる感性を持った製品開発が可能になった。
研究開発体制の強化も図られた。大学や研究機関との共同研究により、新素材の開発や製造技術の改良を進めた。特に機能性繊維との組み合わせや、新しい仕上げ技術の開発により、久留米絣の可能性は大幅に拡大した。これらの取り組みにより、伝統工芸でありながら最先端技術を活用する独特のポジションを確立したのである。
新世紀への架け橋──挑戦が生んだ新たな価値

2000年代に入ると、久留米絣業界の改革努力が実を結び始めた。危機的状況から脱却し、新たな発展段階に入ったのである。この成功の背景には、伝統を守りながらも変化を恐れない柔軟性と、危機を機会として捉える前向きな姿勢があった。
最も顕著な変化は市場の多様化だった。従来の着物市場に加え、ファッション、インテリア、工芸品、観光商品など幅広い分野で久留米絣が活用されるようになった。特にファッション分野では、海外デザイナーとのコラボレーションにより国際的な注目を集めた。パリコレクションでも久留米絣を使用したドレスが発表され、世界的な評価を獲得した。
ブランド価値の向上も重要な成果だった。「KURUME KASURI」として国際商標を取得し、海外市場での模倣品対策を強化した。また、品質保証システムの確立により、高級ブランドとしての地位を確立した。価格競争から価値競争への転換に成功し、収益性の向上を実現した。
新たな販売チャネルの開拓も成功した。インターネット販売の本格化により、全国はもとより海外からの注文も増加した。また、アンテナショップの展開や百貨店での催事販売により、都市部での認知度向上を図った。さらに、観光との連携により久留米絣の里としての地域ブランディングも進んだ。
後継者育成問題にも一定の解決の兆しが見えた。若者向けの研修制度の充実や、起業支援制度の導入により、新たな担い手が現れ始めた。特に女性職人の増加は注目すべき変化で、従来とは異なる感性による新しい製品開発が活発化した。また、Uターンによる後継者も増え始め、技術継承に明るい展望が開けた。
技術面での成果も顕著だった。伝統技法を維持しながら効率化を図った生産システムにより、品質と生産性の両立を実現した。また、新素材や新技術の導入により、従来は不可能だった用途開発も可能になった。抗菌性や防臭性を持つ機能性久留米絣の開発などは、その代表例である。
国際協力も新たな展開を見せた。発展途上国への技術移転や、海外での久留米絣技法の指導により、日本の伝統技術の国際的な普及に貢献した。これらの活動を通じて、久留米絣は単なる地域産業を超えて、日本文化の国際的な発信基地としての役割も担うようになった。試練の時代を乗り越えた久留米絣は、伝統と革新の調和により新たな価値を創造し、次世代への確かな基盤を築き上げたのである。