明治維新が開いた新たな扉

明治維新により藩制が廃止されると、久留米絣は藩の保護を失った。しかしこれは新たな発展の契機ともなった。自由な商取引が可能になり、全国市場への本格的な進出が始まったのである。明治政府の殖産興業政策も追い風となり、久留米絣は近代的な地場産業として再出発を切った。
最初の大きな変化は流通革命だった。明治5年(1872年)の鉄道開通により、九州と本州を結ぶ物流が劇的に改善された。従来の水運中心から陸運へと輸送手段が変わり、久留米絣はより迅速に全国各地へ運ばれるようになった。これにより市場が大幅に拡大し、生産量の増大が求められるようになった。
技術面でも革新が進んだ。明治10年代には力織機が導入され、手織りでは不可能だった大量生産が実現した。ただし久留米絣の場合、絣糸の位置合わせという繊細な作業があるため、完全な機械化は困難だった。そこで機械の効率性と手作業の精密性を組み合わせた独特の生産方式が確立されていく。
明治政府は博覧会を通じて国内産業の振興を図った。久留米絣も明治10年(1877年)の第1回内国勧業博覧会に出品され、その品質の高さが全国的に認知された。特に絣特有の精密な模様と藍の美しい発色は、海外からの視察者にも高く評価された。
組織面での変革も重要だった。明治20年代には久留米絣同業組合が設立され、品質の統一と技術の向上が組織的に推進された。また、原料の共同購入や新技術の導入、販路の開拓なども組合を通じて行われ、産業全体の競争力が強化された。この協同の精神は、現代まで続く久留米絣業界の特色となっている。
教育制度の整備も見逃せない。明治30年代には久留米市に織物専門学校が設立され、体系的な技術教育が始まった。従来の徒弟制度による技術伝承に加え、科学的な理論に基づいた教育が導入されたことで、技術レベルの底上げと標準化が進んだ。これにより安定した品質の製品を大量に生産することが可能になったのである。
大正ロマンと絣の花開く時代

大正時代は久留米絣にとって黄金期だった。大正デモクラシーによる自由な風潮と経済成長により、美しいものへの需要が高まった。久留米絣は高級織物として位置づけられ、上流階級から庶民まで幅広い層に愛用された。特に大正ロマンの象徴とも言える洋装の普及により、新たな用途が開拓されていく。
この時期の技術革新は目覚ましかった。化学染料の導入により、従来の藍一色から多色使いの絣が可能になった。赤、黄、緑などの鮮やかな色彩が加わることで、デザインの幅が大幅に広がった。ただし伝統的な藍染めも並行して維持され、用途に応じた使い分けが行われた。
図案の革新も重要な変化だった。従来の幾何学模様に加え、花鳥風月や風景を表現した絵画的な図案が登場した。これらは当時流行していたアールヌーボーやアールデコの影響を受けており、国際的な美術潮流と日本の伝統技法が融合した独特の美しさを生み出した。
生産組織も高度化した。大正期には問屋制家内工業が確立され、効率的な分業体制が構築された。糸づくり、染色、織り、仕上げという各工程が専門化され、それぞれで高い技術レベルが達成された。この分業制により、品質を保ちながら大量生産が可能になった。
販路も大きく拡大した。東京、大阪、名古屋などの大都市部に専門店が開設され、久留米絣の知名度は全国レベルに達した。特に東京では皇室や華族が愛用したことで、最高級織物としての地位を確立した。また、海外への輸出も本格化し、パリ万国博覧会などで高い評価を受けた。
文化面でも久留米絣は重要な役割を果たした。文学者や芸術家たちが久留米絣を愛用し、作品にも登場させた。特に与謝野晶子や樋口一葉などの女性文学者は、久留米絣を日本女性の美の象徴として描いた。これにより久留米絣は単なる衣料品を超えて、日本文化の重要な要素として認識されるようになったのである。
戦時下の試練と職人魂の継承

昭和初期から終戦までの時代は、久留米絣にとって最も厳しい試練の時代だった。戦時体制下での物資統制、労働力不足、原料入手困難など、様々な困難が産業を直撃した。しかし職人たちは創意工夫により技術を維持し、戦後の復活に向けて伝統の火を絶やさなかった。
昭和12年(1937年)の日中戦争勃発と共に、奢侈品統制が始まった。久留米絣も贅沢品として生産が制限され、多くの織元が軍需工場への転換を余儀なくされた。しかし一部の職人たちは、戦時下でも可能な範囲で技術の維持と向上に努めた。彼らは限られた材料で工夫を重ね、新たな技法を編み出していく。
特に深刻だったのは原料不足である。良質な綿糸の入手が困難になり、代用品として麻や人絹が使用された。染料も化学染料から植物染料への回帰を余儀なくされた。しかしこれが結果的に、伝統的な藍染め技術の再評価と技術改良につながった。職人たちは逆境を技術革新の機会として捉えたのである。
労働力不足への対応も重要な課題だった。多くの男性職人が出征する中、女性や高齢者が技術の担い手となった。この時期に女性職人の技術レベルが飛躍的に向上し、戦後の復興期における重要な戦力となった。また、技術の簡略化と効率化も進み、限られた人員で品質を保つ工夫が凝らされた。
終戦直後は混乱期だったが、復興への意欲は旺盛だった。GHQの占領政策により民間産業の復活が奨励されると、久留米絣業界も急速に活動を再開した。戦前の技術を保持していた職人たちが中心となり、新たな時代に向けた再出発が始まった。
この時期に重要だったのは、技術伝承の仕組みづくりだった。戦争で失われた記録や道具を復元し、若い世代への技術移転を急いだ。また、戦時下で培った効率化技術と伝統技法を融合させ、新しい生産体制を構築していく。職人たちの不屈の精神が、久留米絣の伝統を次世代へと確実に引き継がせたのである。
復興から高度成長への華麗なる転身

戦後復興期から高度経済成長期にかけて、久留米絣は再び黄金期を迎えた。戦後の混乱を乗り越え、新しい時代の需要に応えながら伝統技術を発展させていく。この時期の成功の鍵は、職人技術の近代化と新しい販売戦略にあった。
昭和25年(1950年)には久留米絣協同組合が設立され、業界の組織化が進んだ。品質管理の徹底、新技術の導入、販路の拡大などが組織的に推進された。特に重要だったのは「久留米絣」ブランドの確立で、偽物の排除と品質保証により消費者の信頼を獲得していった。
技術面では機械化と手作業の最適な組み合わせが実現した。絣糸づくりの一部工程に機械を導入しながら、模様合わせなどの重要部分は熟練職人の手作業を維持した。これにより生産効率を上げながら、久留米絣特有の味わいを保つことに成功した。
デザイン面でも革新が続いた。戦後の洋風化に対応し、洋服地としての久留米絣が開発された。従来の着物用とは異なる色彩や模様が考案され、国際的なファッション市場への進出も果たした。パリやニューヨークのファッションショーで久留米絣が紹介され、世界的な注目を集めた。
高度経済成長期には大量消費時代が到来したが、久留米絣は高級品としての地位を維持した。機械化による効率化で価格競争力を保ちながら、手織りの特別感を訴求する戦略が功を奏した。特に贈答品市場での需要が高まり、安定した収益基盤となった。
国際化への対応も重要な変化だった。海外からの技術研修生の受け入れや、職人の海外派遣により技術交流が活発化した。これにより久留米絣の技術は世界に知られるようになり、同時に海外の技術も導入された。この相互交流が、久留米絣の技術レベルを更に高めることとなった。
昭和50年(1975年)、久留米絣は国の重要無形文化財に指定された。これは職人たちの長年にわたる努力が公的に認められた瞬間だった。指定により伝統技術の保護と継承が制度的に保障され、現代まで続く久留米絣の基盤が確立されたのである。職人と時代が共に歩んだ歴史は、ここに一つの頂点を迎えたといえるだろう。