女子ワールドカップの試合が当たり前のように中継され、選手の移籍がニュースになる。そんな光景を、ここ数年で急に目にするようになったと感じる方も多いはずです。
ただ、女子サッカーの人気は「最近ようやく火がついた」ものではありません。100年前、この競技はすでに一度、スタジアムを満員にしていました。
そして、人気が頂点に達した直後に、禁止されたのです。
今回は、5万人の熱狂から始まり、半世紀の締め出しを経て、男女同一賃金の獲得にまで至った女子サッカーの世界史をたどります。
5万3000人が見た試合――戦時下イングランドの熱狂
物語の始まりは、第一次世界大戦下のイギリスです。数百万人の男性が前線へ送られ、軍需工場では女性たちが生産を支えていました。彼女たちは昼休みに工場の中庭でボールを蹴り、やがて職場ごとのチームを結成していきます。
その中から飛び抜けた存在が現れました。ランカシャー州プレストンの工場チーム「ディック・カー・レディース」です。1917年のクリスマスに行われた初試合には1万人の観客が集まり、負傷兵のための募金も大きな成功を収めました。
チームの看板選手が、リリー・パーでした。身長180センチ近い体格と、男子選手も驚いたという強烈な左足のシュートを武器に、キャリア通算で900を超えるゴールを決めたと記録されています。2002年には、女性として初めてイングランドのナショナル・フットボール・ミュージアムの殿堂入りを果たしました。
人気の頂点は1920年の年末に訪れます。エバートンの本拠地グディソン・パークで行われたセント・ヘレンズ・レディースとの一戦に、5万3000人が詰めかけました。スタジアムに入れなかった人が、さらに1万人以上いたと伝えられています。
同じ博物館の記録によれば、このチームは1917年から1965年までに828試合を戦い、負けはわずか24でした。イギリス国内でこの5万3000人という観客記録が破られるのは、2012年のロンドン五輪を待つことになります。
「女性に不向き」――1921年、締め出しの半世紀
熱狂は、長くは続きませんでした。戦争が終わって男性たちが職場とピッチに戻ると、女子の試合が男子を上回る観客を集める状況は、サッカー界の支配層にとって脅威に変わっていきます。
1921年12月5日、イングランドサッカー協会(FA)は決議を下しました。「サッカーという競技は女性にはまったく不向きであり、奨励されるべきではない」。協会に加盟するクラブのグラウンドで、女性が試合をすることが禁じられたのです。
当時の一部の医師たちも「女性の体には過酷すぎる」と公然と唱え、禁止に医学の権威を与えました。表向きは女性の健康を守るためとされましたが、実際に締め出されたのは、男子より観客を集めていたチームたちでした。
行き場を失った選手たちは、水道すらない公園や非公認のグラウンドでプレーを続けます。ディック・カー・レディースは翌1922年にアメリカへ渡り、女子チームが存在しなかった現地では男子チームと互角に渡り合いました。それでも本国での逆風は変わらず、女子サッカーは半世紀にわたって周縁へ追いやられていきます。
同じ構図は各国に広がりました。西ドイツでは1955年、ドイツサッカー連盟(DFB)が「ボールを奪い合う闘いのなかで女性の優雅さは失われ、心身が傷つく」という趣旨の理由で女子サッカーを禁止します。東ドイツでも公的な支援は男子に限られ、女子代表が国際試合を戦えたのは、東西統一直前の1990年5月のたった1試合だけでした。
禁止が生んだ11万人――メキシコの非公式ワールドカップ
1960年代末、公民権運動や女性解放運動のうねりとともに、壁は内側から崩れ始めます。
イングランドでは1969年、FAから独立した「女子サッカー協会(WFA)」が結成されました。統制の外で組織が育つことを恐れたFAは方針を転換し、1971年、半世紀続いた禁止令はついに撤廃されます。翌年には公式のイングランド女子代表が初の国際試合を戦いました。
西ドイツのDFBも1970年10月31日に禁止を解除しました。ただし当初は「30分ハーフ」「スパイク禁止」といった制限付きで、女子代表の初戦が実現したのは、解禁から12年後の1982年のことです。
この時代を象徴するのが、FIFAの外側で開かれた「非公式ワールドカップ」です。1970年にイタリアで開かれた第1回大会はデンマークが制し、翌1971年、舞台はメキシコに移りました。
メキシコサッカー連盟は大会を妨害しましたが、主催者は連盟の管理が及ばない私有スタジアムを押さえて開催を強行します。その会場が、前年に男子ワールドカップ決勝が行われたアステカ・スタジアムでした。
大会の演出は、今の目で見れば露骨なものでした。ゴールポストはピンクに塗られ、選手には体の線を強調するユニフォームが用意され、おさげ髪の少女がマスコットに据えられました。アメリカの新聞が「セクシーになったサッカー」と書き立てたように、競技よりも見世物としての売り出しが先行したのです。
それでも、ピッチの上で起きたことは本物でした。デンマークとメキシコが対戦した決勝には約11万人が詰めかけ、女子スポーツ史上最大の観衆と伝えられています。15歳のスサンネ・アウグステセンがハットトリックを決め、デンマークが3対0で連覇を果たしました。
一方で、開催国メキシコの選手たちは、巨額の興行収入が動くなか無報酬でプレーしていました。決勝前に報酬を求めた彼女たちは世論の反発を受け、それでも観客のためにピッチに立つ道を選びます。満員のスタジアムと、報われない選手たち。この大会が突きつけた対比は、半世紀後の闘いを先取りしていました。
FIFAが動くまで――1991年、80分の世界選手権
11万人の熱狂は、女子サッカーに巨大な商業的可能性があることを世界に見せつけました。それでもFIFAが公式の世界大会に踏み切るまでには、さらに20年を要します。
1991年、中国で初のFIFA女子世界選手権が開催されました。ただしこの記念すべき第1回大会でも、試合時間は男子の90分ではなく80分に短縮されていました。対等な扱いには、まだ距離があったのです。
大会は1995年から正式に「女子ワールドカップ」を名乗るようになり、1996年のアトランタ五輪では女子サッカーが正式競技に加わりました。地元アメリカが初代女王に輝き、女子サッカーの国際的な地位は決定的なものになっていきます。
ピッチの外の勝負――同一賃金をめぐる闘い
競技としての地位を確立した選手たちが次に挑んだのは、報酬と待遇の構造でした。その先頭に立ったのが、ワールドカップ4度優勝を誇るアメリカ女子代表(USWNT)です。
彼女たちは2019年、男女代表間の報酬格差を性差別だとして、米国サッカー連盟を連邦裁判所に提訴しました。長い法廷闘争と世論の後押しを経て、2022年2月に和解が成立します。
そして2022年5月18日、歴史的な労働協約(CBA)が結ばれました。核心は、FIFAが支払う男女ワールドカップの賞金を一つのプールに統合し、男女の代表選手に同じ割合で分配するという世界初の仕組みです。男子大会の賞金総額は女子の10倍以上あり、基本給を揃えるだけでは埋まらない格差を、この方法が乗り越えました。
協約はそれだけにとどまりません。放映権やスポンサー収入の分配は男女で50対50。試合会場のピッチの質、宿泊、チャーター便、スタッフ体制も男女同等と定められ、遠征中の託児や退職年金制度まで盛り込まれました。米国サッカー連盟は、ワールドカップ賞金を男女で平等化した世界初の協会になったのです。
この動きは世界に波及しました。2022年10月、国際プロサッカー選手会(FIFPRO)のもと、25カ国150名以上の代表選手が連名でFIFA会長に書簡を送ります。女子サッカー史上最大の集団行動でした。
FIFAは翌2023年、オーストラリアとニュージーランドで開かれる女子ワールドカップに総額約1億5000万ドルを投じると発表します。前回大会の約3倍で、出場する全選手に最低3万ドル、優勝チームの選手には一人27万ドルが直接保証されました。キャンプや移動の条件も、前年の男子カタール大会と同水準とされています。
グラウンドを使う権利を求めていた選手たちは、100年かけて、収益の分配を交渉するテーブルに着いたのです。
残された宿題――ベンチに女性が少ない
それでも、すべてが解決したわけではありません。ピッチの上の平等が進む一方で、ベンチとその先の意思決定層には、大きな偏りが残っています。
FIFAによれば、世界の登録コーチのうち女性はわずか5パーセントです。1991年から2023年までの女子ワールドカップ全大会を分析した研究では、女性ヘッドコーチの割合は全体の24パーセントにとどまりました。
ただ、この数字には続きがあります。同じ研究によれば、限られた機会しか与えられていないにもかかわらず、女性コーチが率いたチームは全タイトルの44パーセントを獲得していました。一度起用された女性コーチは、複数の大会で結果を残し続ける傾向も確認されています。足りないのは能力ではなく、機会だということをデータが示しているのです。
直近の大会では女性監督の割合が37パーセントまで上がり、FIFAも女子の大会にコーチングスタッフとして女性を置くことを義務づける規則を打ち出しました。変化は始まったばかりですが、方向は定まりつつあります。
「不向き」から100年
1921年、イングランドサッカー協会は「サッカーは女性にまったく不向き」と宣告しました。それから約1世紀。公園の隅でボールを蹴ることしか許されなかった選手たちの競技は、数十億人が視聴する世界的なスポーツに育ち、賞金の分配や労働環境を協会と対等に交渉する力を手にしました。
2024年のパリ五輪では、史上初めて男女の参加選手数がほぼ同数に達したと報告されています。スポーツ全体が動いたこの1世紀の中心に、女子サッカーの歩みがありました。
満員のグディソン・パークから、満員のアステカへ。そして賞金を折半する協約へ。禁止されても消えなかった一つの競技の歴史は、閉ざされた扉がいつか内側から開くことを、静かに教えてくれます。



