袴姿の女学生から、国立の3万人へ――日本女子サッカー100年の物語

袴姿の女学生から、国立の3万人へ――日本女子サッカー100年の物語

2004年4月24日、東京の国立競技場。キックオフ直後、ひざに大けがを抱えたまま先発した澤穂希選手が、相手エースに強烈なショルダーチャージを浴びせてボールを奪いました。スタンドを埋めたのは3万1324人。当時の女子サッカーでは考えられない数の観衆でした。

相手はアジア屈指の強豪・北朝鮮。勝てばアテネオリンピック、負ければ道が閉ざされる一発勝負を、日本は3-0で制します。のちに澤選手自身が「日本女子サッカーの歴史を変えた試合」のひとつに挙げる一戦です。

ただ、この熱狂は一夜で生まれたものではありません。そこに至るまでに、日本の女子サッカーはおよそ100年の回り道をしてきました。袴姿でボールを蹴った女学生から、資金難の初代代表、バブル崩壊で消えた名門チーム、そして「女性活躍」を掲げるプロリーグまで。一つの競技の歩みが、そのまま日本社会の変化を映す鏡になっています。

袴のままボールを蹴る――大正時代の意外な起源

日本女子サッカーの起源は、一般に想像されるよりずっと古くまでさかのぼります。香川県立丸亀高等女学校(現在の丸亀高校)には、大正時代の女学生たちが袴姿のままサッカーに興じる写真が残されています。

大正デモクラシーの時代、女性の教育機会が少しずつ広がるなかで、屋外で思い切り体を動かす女学生の姿は、当時としてはかなり先進的な光景だったはずです。もっとも、この時点の女子サッカーは学校の遊戯の域を出るものではありませんでした。競技として組織化されるまでには、そこからさらに半世紀を要します。

男子部の片隅から代表結成へ――1972年のFCジンナンと1981年の第一歩

戦後、女子サッカーが再び動き出すのは1970年代です。1972年、日本初の女子サッカークラブ「FCジンナン」が東京・渋谷で誕生しました。サッカー専門誌の誌上でメンバーを公募し、それを見た高校生や社会人が集まって結成された、文字どおり手作りのチームです。

このジンナンでプレーした一人が、当時中学2年生だった岡島喜久子さんでした。女子チームがほとんどなかった時代、中学の男子サッカー部で練習しながら公募に応じてジンナンに加わった彼女は、およそ半世紀後、日本初の女子プロリーグの初代チェアに就任することになります。

各地でチームとリーグが生まれると、全国組織を求める声が高まり、1979年に日本女子サッカー連盟が発足します。翌1980年には第1回の全日本女子サッカー選手権が開かれ、全国の力自慢が初めて一つの舞台に集まりました。

そして1981年、香港で開かれるアジア女子選手権への参加要請が届き、初の女子日本代表が結成されます。ただ、その道のりは過酷でした。連盟にも協会にも遠征費を賄う余裕がなく、費用の一部は選手の自己負担。社会人選手は「サッカーの海外遠征」という当時ほとんど前例のない理由で職場と休暇の交渉を重ね、国内の慣習と異なる国際ルールには直前の合宿で急いで適応しました。

そこまでして臨んだ初陣は、アジアの強豪との実力差を突きつけられる厳しい結果に終わったと伝えられています。それでも、この敗戦が「普及」から「強化」へと意識を切り替える転機になりました。同じ1981年の秋には神戸と東京で国内初の国際女子大会「ポートピア'81」が開かれ、世界のトップレベルを肌で知る機会にもなっています。

企業とともに栄え、企業とともに消えた――L・リーグと1990年代の教訓

1980年代後半になると、全国リーグ構想が動き出します。遠征費や選手の雇用を支える現実的な方法は企業スポンサーで、FCジンナンも1986年に日産自動車を迎えて「日産FCレディース」となりました。1989年、こうしたチームが集まって日本女子サッカーリーグ、のちのL・リーグが開幕します。

企業の資金力を背景に、リーグは外国人スター選手を擁するまでに成長しました。その象徴が、1990年に発足した日興證券ドリームレディースです。専用グラウンドと選手寮を備え、選手がサッカーに専念できる環境を整えた同チームは、1990年代後半にリーグ3連覇を達成します。

ただ、その絶頂は長く続きませんでした。企業にとって女子チームの運営は福利厚生や広告宣伝の一部であり、本業が傾けば真っ先に削られる領域です。バブル崩壊後の金融不況で親会社の経営が悪化すると、3連覇を果たした1998年のシーズン中に廃部が発表され、翌1999年1月の全日本選手権決勝がチーム最後の試合になりました。

ピッチでどれだけ勝っても、チームの存続は選手の手の届かないところで決まる。その現実を、これ以上ない形で示した出来事でした。

撤退はドミノのように続き、リーグは規模の縮小を迫られます。一つの親会社に頼りきる運営モデルの危うさは、このとき日本の女子サッカー界に深く刻まれ、のちの地域密着型クラブやプロリーグ構想の伏線になっていきます。

国立の3万人――2004年、アテネ予選が変えた景色

冬の時代を生き残った選手たちが迎えたのが、冒頭の2004年アテネオリンピック・アジア予選でした。当時のチームは、慣れ親しんだ3バックから変則的な4バックへとシステムを組み替える挑戦の途上にあり、レギュラーの入れ替えを乗り越えて一体感を高めていました。

その成果が、北朝鮮との大一番で実を結びます。3-0の快勝で2大会ぶりのオリンピック出場を決めると、この試合を機に女子代表への注目は一変しました。予選後には愛称の公募が行われ、「なでしこジャパン」という名前が誕生します。ここで生まれた支持の土台が、7年後の2011年、ワールドカップ優勝という頂点につながっていきました。

親会社に頼らないクラブのかたち――スフィーダ世田谷という実験

企業チームの相次ぐ撤退という教訓は、クラブのあり方そのものも変えました。その代表例が、東京・世田谷のスフィーダ世田谷FCです。

始まりは2001年、「中学生になってもサッカーを続けたい」という地元の女の子たちの受け皿を作ることでした。親会社からの資金で動く実業団とは対極の、ボトムアップの市民クラブです。NPO法人による運営で地域に根を張りながら力をつけ、2011年に全国リーグのチャレンジリーグへ参入、2020年になでしこリーグ2部で優勝、2022年には1部でも初優勝を果たしました。

現在はトップチームから小中学生の育成組織、ママさんチーム、ブラインドサッカーまで約200名が所属する、国内最大規模の女子サッカークラブに育っています。そして2027年からはFC東京と統合し、「FC東京スフィーダ」として新しい段階に進むことが発表されました。地域の小さな挑戦から生まれたクラブが、四半世紀かけてJクラブの一員になる。企業の都合で消えていったチームたちとは対照的な、持続するクラブの一つの答えです。

「勝つため」だけではないリーグ――WEリーグとジェンダー平等

そして2021年9月、日本初の女子プロサッカーリーグ「WEリーグ」が開幕します。正式名称はWomen Empowerment League。初代チェアに就いたのは、あのFCジンナンでプレーした岡島喜久子さんでした。公募でチームに飛び込んだ中学生が、半世紀後にプロリーグの先頭に立つ。日本女子サッカーの歩みを一人で体現するような就任です。

このリーグの参入基準は、世界的に見てもかなり踏み込んだものでした。クラブ運営法人の役職員の50%以上を女性とすること(入会から3年以内に達成)、意思決定に関わる役員に少なくとも1人は女性を置くこと、コーチ陣に女性指導者を1人以上含むこと、そしてホームスタジアムに託児施設を確保すること。競技成績や財務だけでなく、組織の中身そのものが問われます。

当時の日本サッカー協会会長・田嶋幸三氏は設立発表で、サッカーのフィールドから日本の社会を変えていきたいと語りました。日本のスポーツ組織の意思決定層が長く男性に占められてきた歴史を踏まえ、あえて数値基準で変化を義務づけた設計です。

プロ化の成果は、代表の結果にも表れています。2023年のワールドカップで、なでしこジャパンはスペインを含むグループを3戦全勝、11得点無失点という圧倒的な内容で首位通過し、ベスト8に進みました。同じ2023年には杭州で開かれたアジア競技大会で、決勝で北朝鮮を4-1で下して優勝しています。

100年の回り道が教えてくれること

袴姿の女学生がボールを蹴った大正時代から、およそ100年。日本の女子サッカーは、資金難も、企業スポーツの崩壊も、社会の無関心も、そのたびに仕組みを作り替えることで乗り越えてきました。

国立競技場の3万人は、偶然集まったわけではありません。男子部の片隅で練習した選手たち、自己負担で海を渡った初代代表、消えていったチームの教訓、地域で育ったクラブ。その積み重ねの上に、いまのWEリーグとなでしこジャパンがあります。

そして今、このリーグは競技の枠を越えて、女性の働き方や組織のあり方という日本社会全体の宿題に、スポーツの側から答えを出そうとしています。週末のスタジアムに足を運べば、その挑戦の続きをスタンドから見届けることができます。100年かけて育ってきた物語は、まだ途中です。

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