練習場のピッチを走る選手の腕に、小さな黒いバンドが見えることがあります。二の腕のあたり、袖からのぞく位置で揺れる、コインほどの小さな機器です。腕時計でもなければ、胸に巻くベルトでもありません。
近ごろ、サッカーやランニングの現場でよく見かけるようになったのが、この上腕に着ける光学式の心拍センサーです。代表的なのがフィンランドのポラールがつくる「Verity Sense」で、布のバンドで腕にぴたりと留めるだけの、装着を忘れるほど軽い一台です。
胸に巻くベルト型なら昔からありますし、手首の腕時計型も広く知られています。それでも、勝負のかかったサッカー選手が、わざわざ上腕という少し変わった場所を選んでいるのには、きちんとした理由があります。
胸でも手首でもなく、なぜ上腕なのか
なぜ、わざわざ上腕なのでしょうか。手首は、体のなかでもよく動く場所です。腕を大きく振り、急に止まり、相手とぶつかるたびに、手首に着けたセンサーは肌との間にわずかなすき間ができやすくなります。
すき間ができると外の光が入り込み、センサーの位置もずれて、心拍の信号に動きによるノイズが混じります。運動が激しくなるほど数値は実際からずれていき、これは手首型のデバイスが長く抱えてきた弱点でもあります。
その点、上腕は違います。関節から遠く、筋肉や腱の動きに振り回されにくいうえ、血の流れも比較的安定しています。布のバンドでセンサーを肌に密着させれば、動きのノイズをぐっと抑えられます。
装着感の軽さも、上腕が選ばれる理由の一つです。胸のベルトは、正確さでは長く基準とされてきた一方で、胴体を締めつけ、深い呼吸や体のひねりをわずかに妨げます。長時間つければ、汗と擦れで肌が痛むこともあります。
上腕のバンドには、その窮屈さがありません。ユニフォームの下に隠れて相手に気づかれることもなく、競り合いでぶつかっても危険がありません。
競技のルールという事情もあります。サッカーの試合では、硬いケースやガラスを持つ腕時計型の機器は、接触したときに自分や相手を傷つけるおそれから、着用が適さないとされる場面が多くあります。柔らかいバンドで腕に収まるセンサーなら、その心配がありません。
つまり上腕という位置は、「正確に測れて」「動きを邪魔せず」「ぶつかっても危なくない」という三つの条件を、同時に満たす場所なのです。
光の反射で心拍を読む――光学式という測り方
上腕のセンサーは、光で心拍を読み取ります。肌に緑色の光をあてて、皮膚のすぐ下を流れる血液に反射させると、その血液の量は心臓が打つたびにわずかに増減するので、返ってくる光の強さも脈打つように変わります。この変化を捉えて一拍ずつ数えていく仕組みが、光電容積脈波、いわゆるPPGと呼ばれる方式です。
ポラールの Verity Sense は、この読み取りに六つのLEDを使っています。光の当たる面を増やすことで、より安定した信号を拾おうという設計です。
光で読むこの方式は、胸のベルトに比べると精度で不利だと思われがちです。胸のベルトは心臓の電気信号そのものを拾う心電図の方式で、長らく心拍計測のいちばん確かな基準とされてきました。
ただ、上腕に着けた光学式センサーと胸のベルトを比べた検証では、両者の心拍はかなり近い値で一致すると報告されています。少なくとも、手首で測るよりは安定して基準に近い、という結果が重ねて示されてきました。
胸のベルトの窮屈さを避けながら、それに迫る正確さも手に入る点が、上腕の光学式センサーが現場で選ばれる大きな理由になっています。
「どれだけ走ったか」と「体がどれだけ応えたか」――外部負荷と内部負荷
心拍を測って、いったい何がわかるのでしょうか。スポーツ科学には、外部負荷と内部負荷という二つの見方があります。
外部負荷は、選手が物理的にどれだけの仕事をこなしたかを表します。走った距離やスプリントの回数、加速と減速の激しさといった、外から見える運動量のことです。
サッカーの現場では、これをGPSで測ります。バルセロナの研究部門であるバルサ・イノベーション・ハブが公表している内容では、同クラブは一軍から育成年代まで、GPSを組み込んだベスト型のデバイスを着けて、走行距離やスピードといった外部負荷を追いかけています。背中にすっと収まる、あのベストです。
一方の内部負荷は、その運動に対して体の内側がどれだけの代償を払ったかを表します。同じ距離を走っても、コンディションのいい選手と、疲れをためた選手とでは、心臓の高鳴り方も、その後に落ち着くまでの時間も違います。心拍センサーが映すのは、この「体の内側の手応え」です。
ポラールが公表する仕様では、このセンサーは最大150メートルほど離れた端末まで心拍を送れるとされ、広いピッチの反対側にいるスタッフのタブレットにも、走っている選手たちの数値がそのまま届きます。
外部負荷と内部負荷は、いわば「こなした仕事の量」と「その仕事に体が支払った代償」の関係です。二つをそろえて初めて、選手の本当の疲れ具合が見えてきます。
同じ10キロを走っても、心拍がすぐ上がりきってなかなか下がらないなら、体は見た目以上に消耗しています。走行距離という外部負荷に心拍という内部負荷を重ね合わせる、その考え方から、トレーニングの強さを積み上げて評価するTRIMPのような指標も生まれました。
背中のGPSベストが「どれだけ走ったか」を記録し、上腕の心拍バンドが「体がどれだけ応えたか」を記録します。役割の違う二つがそろって初めて、一人の選手のコンディションが立体的に見えてきます。
心拍のゆらぎが教えてくれる回復――HRV
心拍の使い道は、運動中の強さを測ることだけではありません。回復の度合いを読むうえで近年重視されているのが、心拍変動、HRVと呼ばれる指標です。
心臓は、メトロノームのように一定の間隔で打っているわけではありません。健康なときほど、一拍と次の一拍のあいだの時間には、ごく細かなゆらぎがあります。このゆらぎの大きさが、体の状態を映します。
ゆらぎが大きいときは、体を休ませる側の神経がよく働いていて、前日の激しい運動から十分に回復しているサインとされています。逆にゆらぎが小さく間隔がそろっているときは、体が強いストレスの下にあり、疲れが抜けきっていない可能性が指摘されています。
上腕のセンサーが拾う拍と拍の間隔を解析すれば、このHRVを日々追いかけられます。選手が朝起きたときの値を記録しておき、いつもの基準からどれだけ外れたかを見て、数字が普段より落ちていれば、体はまだ回復しきっていないという手がかりになります。
ケガをする前に休ませる――非接触型傷害と予防
サッカーのケガには、相手との接触で起きるものと、接触なしに起きるものがあります。肉離れや腱の痛みといった非接触型のケガは、疲れの蓄積や回復不足が積み重なって起こることが多いとされています。ここでHRVが手がかりになる、という研究が進んでいます。
選手本人がまだ「少し張るかな」という自覚すら持たない段階で、回復を司る神経の働きが先に落ちてくることがあります。その小さな変化を毎日のHRVから拾えれば、疲れが表に出るより早く危険信号を捉えられるのではないか、と期待する研究が重ねられています。
まだ研究段階の話で、HRVだけでケガを言い当てられるわけではありません。ただ、いつもより数字が落ちた選手のその日の練習を軽くしたり休ませたりする、その判断の材料の一つとして、心拍のデータが使われ始めています。
リハビリの場面でも、心拍センサーは働きます。ケガから戻る選手には、「最大心拍のこれくらいに抑えて何分走る」という細かな運動の処方が出されます。本人の主観だけに頼るとつい無理をして再発を招きかねないので、正確な心拍を見ながら、決められた範囲の中で体を戻していきます。ピッチの脇で腕にバンドを着けて走る選手の姿には、そんな意味があります。
腕の黒いバンドが翻訳してくれるもの
ピッチを走る選手の上腕にある、あの小さな黒いバンドの中身は、光で心拍を読み取るだけの、ごくシンプルな機器です。
けれど、その一台が拾うデータは、外から見えない疲れを数字に変え、走った量だけではわからない体の内側を映し出します。どれだけ走ったかを記録するGPSベストと組み合わせれば、選手の本当のコンディションが立体的に浮かび上がり、ケガをする前に休ませるという難しい判断さえ支え始めています。
そしてこの考え方は、プロだけのものではありません。ランニングのときに心拍計を着ける方も多いはずです。今日の自分の心拍がいつもより高いか低いかを手がかりに走る強さを決めるのは、プロのチームが数十人がかりでやっていることと、根っこは同じです。
腕の黒いバンドは、見た目こそ地味でも、「がんばり」を「数字」に翻訳してくれる小さな通訳のような存在です。体の声に耳を澄ませる道具として、これからますます身近になっていくはずです。



