■ 時代に挑戦する者達
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このコーナーでは、困難な時代において、しがらみにとらわれず新しい試みに挑戦する人たちがいます。時代を読み、自分の信じる道へ邁進する人たちに迫ります。
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株式会社ヤマニ味噌 専務取締役 藤川茂氏
第1回「明治20年から受け継がれる伝統の味噌作り」
千葉県佐倉市で明治20年から続くお味噌屋さん「株式会社ヤマニ味噌」の専務取締役 藤川茂氏にお話を伺いました。祖父が先代社長、父が現社長を務めるお味噌屋の家系に生まれ育った藤川茂氏。当初はお店を継ぐことは全く考えておらず、千葉県を離れ、別の道に進みましたが、故郷に戻り、約20年味噌作りに携わっています。幼いころから長きに渡って株式会社ヤマニ味噌を間近で見てきた藤川茂氏に、株式会社ヤマニ味噌の歴史や味噌作りのこだわりなどをお伺いしました。
【株式会社ヤマニ味噌 専務取締役 藤川茂氏氏 1/3】
▼お味噌屋の家庭に生まれ、お店と共に人生を歩んできた
――お生まれはどちらですか?
藤川: 千葉県佐倉市で生まれました。
現在は父が弊社の社長を務めていて、祖父が先代になります。ここに来て20年ぐらい店をやっていますが、子供の頃は店をやるとは思ってなかったですね。
裏が蔵になっていて、手前が母屋になっています。母屋は戦前からある建物なんですよ。昔は蔵が遊び場みたいな感じで、味噌と隣同士で生活をしているような感じでした。ずっとここで生まれ育っているので、お店と共に歩んできた人生みたいな感じですね。
――この辺りは自営業のご家庭が多いのですか?
藤川:佐倉は城下町であり、昔はとても多かったみたいですね。県内では最大級となる堀田氏の佐倉藩があって、現在歴史民俗博物館があるところに昔は佐倉城があったんです。城下町で、お店屋さんや酒屋さんなどの商店が栄えていた歴史があるみたいですね。
――お家が味噌屋さんということで、他の家庭と何か違いを感じることはありましたか?
藤川:とにかく周りに人が多かったですよね。一人になるタイミングはなく、常に誰かが周りにいました。
今は従業員が10人ぐらいなのですが、昔は20人ほどいたんです。家族ではない人が家の中に結構出入りしていて、賑やかな環境で幼少期を過ごしていました。
――小さい頃から傍でお味噌屋さんを営まれているのを見ていて、いかがでしたか?
藤川:みなさん明るく仕事をしていたイメージはあります。
ただ仕事と私生活のオンオフが、どうしてもないんですよね。常に頭のどこかには仕事があります。
味噌作りは1.麹、2.炊き、3.仕込みという工程があるんですが、麹を作る工程がすごく重要なんです。夜中に麹がうまくできているか見に行くのは、ここに住んでいる社長や私の役目になります。
お正月もお店自体は閉まっていますけど、味噌の管理は常にしなければいけません。
365日いつでも味噌のことが頭のどこかにある生活を、父である社長も送ってきました。
会社を出たら、あとは自分の時間という切り分けは、良くも悪くもなかったと思います。
――家族でお出かけをするような機会もなかったのですか?
藤川:家族でかけた記憶は、一度しかないですね。千葉県の勝浦にある南房パラダイスで、フラミンゴを見た記憶があります。 家族旅行に出かけた記憶はありません。
▼御用味噌蔵に指定され戦時中も味噌づくりに奔走
――佐倉市では、元々味噌が盛んだったのでしょうか?
藤川:佐倉だから、味噌が盛んだったということはないと思います。
でも、城下町だったこともあり、お城を中心に商店が栄えていました。昔は一汁一菜、一汁三菜という形で、御飯があってお味噌汁があって野菜があって地場で採れたものを食べてという生活をしていました。だから今よりも、お味噌が重要視されていたと思います。城下町の佐倉城の近くには、今でも「みそべやの坂」という地名が残っています。地名としても残っているぐらい、佐倉は味噌を大切にしていたというのは感じますね。
――お味噌屋さんは、何軒ぐらいあったのですか?
藤川:正確にはわかりませんが、麹屋さんやお味噌屋さんは、何軒もあったと聞いています。
昔から作ってるところは、当社だけだと思いますね。
――明治20年創業ということは、戦時中も体験されていると思うのですが、苦労はありましたか?
藤川:第2次世界大戦に突入した時に、佐倉城があった敷地が広かったこともあり、佐倉連隊という、関東でもとても大きな連隊ができたんです。
兵隊さんが他県から集まってきて、訓練をして、東南アジアの方に派遣されていました。訓練されている方はものすごくたくさんいらっしゃって、第2次世界大戦のピークの頃は、祖父も従業員もみんな徴兵されて、いなくなってしまったんです。
でも、佐倉連隊としては、たくさん兵隊さんに御飯を食べさせる必要があり、お味噌も必要だから「味噌を届けてほしい」と言われたんです。「職人さんもみんな徴兵されていない」と伝えると、「うちの兵隊を派遣する。兵隊さんに作らせるから」と言われて、当時は兵隊さんに来てもらって、味噌を作って、納めていました。聞いた話では、ヤマ二味噌だけが佐倉連隊の御用味噌みたいな形で指定されていたそうです。
戦争中も御用味噌蔵として味噌を使っていただいていたので、どん底のタイミングでもうまく切り抜けられました。だから、当社だけが今でも味噌屋として残っていると、聞いています。
――数あるお味噌屋さんの中でも、御社に依頼がきたのは、何か理由があったのでしょうか?
藤川:訓練をしていた場所から10分ぐらいの距離に当社があるので、すぐに収めることができたというのが大きかったと思います。
――当時は、お味噌は各家庭で作られていたのですか?
藤川:昔は作っていたと聞きますね。
ただ、原料の麹だけは家庭で作るのが難しかったので、麹は麹屋さんから買ってきていたそうです。昔は麹屋さんが、いっぱいあったと聞いています。
▼経営が悪化し、事業を継ぐことを決意
――佐倉市でずっと過ごされてきて、大学は県外の大学に進学されたのですか?
藤川:はい、大学は東京の大学に行きました。お味噌屋を継ごうとは考えてたわけではないんですけど、経営学を学んでいました。
――どのような経緯で、事業を継ぐことになったのですか?
藤川:大学を卒業してからは、システムエンジニアとして働いていました。当時は継ぐ気は全くなかったんですけど、ちょうど各会社がホームページを自社で立ち上げてネットショッピングをやりはじめたタイミングだったんです。
でも、父も母も全くパソコンはできなくて、お味噌の消費も年々落ちる中で、色々と時代に取り残されているなと感じたんです。
パソコンを使う仕事もしてましたし、自分も何か手伝えるかなと思って、戻ってくることを決めました。
――ヤマ二味噌をなくしてはいけないと思われた、一番の理由は何だったのでしょうか?
藤川:明治20年からお店が続いていて、替えがないものですし、絶やしてしまってはいけないとの思いがありました。
4世代5世代と長く使ってくださるお客様も、たくさんいらっしゃるんです。佐倉で生まれ育って、今は北海道や九州に住んでいて、「現地の味噌を買ったけど、味が合わないから通信販売で買わせてもらってます」というお客様もいらっしゃいます。
お客様それぞれにヤマニ味噌のストーリーがあって、それを途絶えさせてしまってはいけないという気持ちがありました。
――お父様から事業を継いでくれと、言われることはなかったのですか?
藤川:父からは今まで、継いでほしいと言われたことはないですね。父もお味噌屋さんの大変さを身に染みて感じていると思うので、背中を見せて継ぐかどうかは自分で判断しなさい、と考えていたんだと思います。
――周囲の方々の反応はいかがでしたか?
藤川:長年働いている職人さんが多く、「若いあんちゃんが入ってきて、何ができるんだ」という感じはあったと思います。でも、一から勉強してできることを最大限にやるしかないと思っていました。みんなと一緒に仕事をしながら学んで、自分の知識をフィードバックしてここまできました。
つづく