NEWS LETTER Vol.023 二天一流総本店 代表取締役 井上正生氏

NEWS LETTER Vol.023 二天一流総本店 代表取締役 井上正生氏 - HAPIVERI

■ 時代に挑戦する者達

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このコーナーでは、困難な時代において、しがらみにとらわれず新しい試みに挑戦する人たちがいます。時代を読み、自分の信じる道へ邁進する人たちに迫ります。
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二天一流総本店 代表取締役 井上正生氏 第1回「機能性もデザイン性も妥協しない、世界に一つのオーダーシューズ」

 

千葉県北西部に位置する下総中山駅。この下総とは千葉県北部と茨城県西部に跨る領域を旧国名と呼んでいたことが由来となっています。この由緒ある地域にオーダーシューズを営む二天一流総本店というお店があります。顧客の足を計測し、その顧客に合わせた革靴を製造販売している井上正生氏に、ご自身の成り立ちをお伺いしました。

【二天一流総本店 代表 井上正生氏 1/5 】

▼子どもながら肌で感じた資本主義社会

――お生まれはどちらですか?故郷の印象も教えてください。

井上:このお店もある千葉県の船橋市です。 昔は空き地が多くて本当に田舎町というか、森林も多かったり、カブトムシやクワガタが捕れたり、沼地があってザリガニを取ったり、そんなイメージだったんですが、今は完全にベッドタウンですね。 東京も30分ぐらいで行けるので、ある程度自然もあるし、住宅として構えるにはいい街なんじゃないかと思います。

――幼少期はどんなふうに過ごしていましたか?

井上:父はゼネコン勤めで、石油プラントを作ったり、ビルの空調を整えたりするセールスマンで、私が小学校6年生の時までクウェートに単身赴任をしていました。 母も県庁で公務員として夜遅くまで仕事をしていたので、家ではほぼ私一人だったのですが、友達の家で夕飯をご一緒させていただいたり、ほとんど外で遊び回っていた記憶があります。 当時、我が家ではお小遣い制度がなくて、みんながファミコンや駄菓子を買うのを見ているとやっぱり僕も欲しくて、カブトムシやザリガニを捕って、公園で売って何とか生計を立てていました(笑)。

――すごい話ですね。どうしてその商売を思いついたんですか?

井上:土地柄なのか、子どもの頃から資本主義のような感覚はすごくあって、やっぱり地主の百姓のお子さんは大きな家で自分の部屋もあってお金も持っていたし、最初に流行りものを買えるといった印象が強くありました。

でも住んでいる場所としては都会の方なので、カブトムシやクワガタはいないんですよね。 その中で自分の捕ったカブトムシやザリガニを小学校に持っていくと、すごく脚光を浴びたんです。 僕も欲しいなって羨ましがられた時に、これを売ったらいいじゃんと思って、1匹100円とか50円で販売していました。

――小学生の時はどんなことが得意でしたか?

井上:勉強はあまり得意な方ではなかったですね。 塾にも通っていましたが、ほとんど行くと言いながらサボっていました(笑) でも物を作ることは好きで、図工で賞を取ったりしたこともありました。 中学1年生の時からバスケットをずっとやっていて、社会人になっても続けていました。 とにかく外で遊ぶのが好きで、それこそ秘密基地を作ったりと結構アウトドア派だったと思います。

――バスケットを長く続けていらっしゃったんですね。

井上:そうですね。中学校では全国に行ったようなチームもあったんですけど、僕はそこまで上手だったわけではなかったので、高校では学校の部活というよりはストリートバスケの方にどんどんハマっていきました。 秋葉原や地元の市役所にあったゴールを使って、10歳や20歳年が離れた人達や、日本人だけじゃなくて中国や中東系の方も混ざって一緒にバスケをやっていた記憶があります。

▼やったことの対価が喜びになる仕事がしたい

――その後の進路はどうされましたか?

井上:実は中学校を卒業して料理人になろうと思っていた時があったのですが、祖母に相談したら、高校くらい出ていないとダメだって猛反対されて(笑)。

お袋のような公務員よりは実際にお客様にサービスする仕事がやりたいと思っていて、料理人だと作ったものをその場で食べてもらって、その様子も見れるじゃないですか。そういうのが自分の中ではあったんじゃないかなって今振り返って思います。

誰かに何かをして喜んでもらうことが感覚的にすごく嬉しくて、人に認めてもらえるっというか、やったことの対価が喜びになる感覚、それこそカブトムシやクワガタを売った時と同じ、あの感覚がなぜか忘れられなかったんですよね。

そういう思いもあって、高校では商業系に進学して簿記や経理を勉強しました。 高校は都内でしたが、文化の違いやファッションや流行などいろんな情報が地元よりも早くてたくさんの刺激を受けました。

――進学してその後どうなりましたか?

井上:実は中学生の時に自分の持っているものを、フリーマーケット会場で販売したりもしていたんです。当時流行った古着のジーパンやNIKEのTシャツとかが結構高額で売れて、それを資金にまた新しい洋服を買ったりしていました。そういった記憶も商売を学びたいと思ったきっかけだったかもしれません。

当時リーバイスが流行っていたので、流行に乗っかって千葉なら津田沼辺り、都内なら下北沢や高円寺まで行って、いろんな古着を買いに行っていました。

▼100年前の作り手と商品を通じて出会う

――思い出の古着はありますか?

井上:高校生の時にたまたま古着屋さんで出会った1905年製のレッドウイングですね。 バイト代を貯めて当時7万円のブーツを買いました。

元々このブーツはワークブーツ。仕事をするための靴で、重い物を足の上に落としても大丈夫なようにかなり強化された芯材が入っていて、歩くよりは足を守るためのブーツだったんですけど、日本に入ってきたタイミングではアメカジブームに乗っかって、街歩き用にみんな履いていましたね。

――歴史や知識も豊富ですね。そういう情報はどうやって収集したんですか?

井上:昔の雑誌から調べたり、いろんなメーカーのルーツや作った理由などを自分で調べて理解を深めていきました。

読書が結構好きな方で、昔はほとんど活字の本を読んだことがなかったんですけど、22歳の時に入った会社の外注先に憧れているデザイナーさんがいて、その方に勧められて本を読むようになりました。

一番始めに読んだのがネイティブアメリカンの本で、アメカジという文脈もあったのかもしれないですが、元々アメリカにいた人達がコロンブスが来たのをきっかけに奴隷になったり、今でもまだ続いているネイティブアメリカンの人達が起こしたストライキなどの内容が載っていました。 そういう情報ってほとんど日本に入ってこないこともあって、読んだ時に衝撃を受けたんですよね。他にも自分の知らないことをもっと学んで知りたいと思い、いろんな本を読むようになりました。

レッドウイングに関しても、それこそ作られたのは100年以上前で、作り手はもういないけど、物はしっかりと次の使い手に渡っていける、それだけの商品作りができるってすごいことだなと思って、その時に「そうだ、靴職人になろう」と思ったんです。

つづく

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